《聴覚と視覚の取り合わせ》

仁和の中将のみやすん所の家に歌合せむとてしける時によみける 藤原のちかけ (108)

はなのちることやわひしきはるかすみたつたのやまのうくひすのこゑ

花の散ることや侘しき春霞たつ田の山の鶯の声

仁和:光孝天皇の御世の年号。
みやすん所:天皇の御寝所に仕える女性。

「光孝天皇の御代に中将の御息所と言われた方の家で歌合わせしようと言ってした時に詠んだ  藤原後蔭
花の散ることがつらいのか、春霞が立っている竜田の山の鶯の声は。」

「や」は係助詞で、係り結びによって、文末を連体形(「侘しき」)に変えている。歌はここで切れ、疑問文になっている。「かすみたつたのやま」の「たつ」は、掛詞になっていて、「(春霞が)立つ」と「竜(田の山)」の両方の意味を表している。
竜田の山に春霞が立っている。そのため、山の桜はよく見えない。しかし、桜は散ってしまったとわかる。なぜなら、盛んに鶯の鳴く声が聞こえてくるからだ。鶯は桜が散るのがつらくて鳴い(泣い)ているのだろうから。「うくいす」には、「うく」(憂く)の仮名が含まれているので、「鳴く」は、「泣く」と捉えられていた。
竜田の山は、奈良県北西部、三郷町と大阪府柏原市との間の山地の古名である。京からここまで桜を見に来たのだろう。ところが、竜田の山には春霞がかかり、桜が見えない。その残念な思いを鶯に託している。鶯の声から春霞が掛かって見えない桜の様子を想像している。この歌は、聴覚と視覚の取り合わせに新味を見出している。

コメント

  1. すいわ より:

    見えない桜を鶯の声で見る、耳で聞き視覚化するのですね。しかも「鶯の鳴く」でなく「鶯の声」としている。掛け言葉にしているだけでなく、何重にも工夫を凝らしている事に驚かされます。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、「鳴く」ではなく「声」となっていますね。「鳴く」だと、鶯の姿が想像されます。しかし、それは見えません。したがって、「声」の方が適切ですね。声だけが聞こえてくるのですから。

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