はるのうたとてよめる そせい
いつまてかのへにこころのあくかれむはなしちらすはちよもへぬへし (96)
いつまでか野辺に心の憧れむ花し散らずば千世も経ぬべし
「春の歌と言って詠んだ 素性
いつまで野辺に心が奪われるのか。もし花が散らないなら、このままの状態で千年も経ってしまうに違いない。」
春の野辺の長閑さは、永遠を感じさせる。時が止まったようにも、千年の時を経たようにも感じられる。幸せには様々な形があろうが、こうした長閑な気分もその一つであることに違いない。それなのに、桜の花びらが散り、この気分を壊そうとする。これさえ無ければと思わずにいられない。何とも恨めしい落花であることか。
前の歌との繋がりから見れば、桜の落花は、常康親王のお心を暗示しているのか。常康親王は、僧正遍昭に雲林院を譲っている。素性法師は出家させられる。こうした事情が関わっているのかも知れない。殊更「はるのうたとて」と断っているのもかえって気になる。
コメント
花が散りさえしなければ、この心地よい時間はいつまでも続くに違いない。春の歌、ですからね。でも、、
親王の世がいついつまでも続いて欲しい、どうか仏の道へ踏み出さないで欲しい、と言えない言葉を歌に託しているのでしょうか。春の綻び、爛漫の春が、ほんの一片の花びらの舞った瞬間、春愁の思いに染まっていく。
「いつまてかのへにこころのあくかれむ」はここを去りたい親王の心、「はなしちらすはちよもへぬへし」は留まって欲しい素性法師の心のようにも思えます。
常康親王は、この時既に出家していたようです。ただ、どういう事情かはわかりませんが、雲林院を僧正遍昭に譲ることになります。すると、そのことが素性法師の身にも関わってきます。これまで通りには行かなくなります。素性法師は、このまままだ長閑な春に浸っていたいのでしょう。
上の句を親王の心、下の句を素性法師の心と読むのは面白いと思いますが、歌の構成を考えてみると、やはり全体がひとまとまりになっています。すべて素性法師の気持ちでは無いでしょうか。
時を止めるのではないかと思われる程の穏やかさの中に置かれ「いつまでもここに居たい」のですね。留めておけないと分かってはいても。浦島太郎みたいです。現実を受け止める前の「常世の春」、あまりに儚いです。
春には、人をして時を忘れさせる作用があるようです。これも春という季節の一面です。この歌はそれをこんな形で取り出しました。