僧正遍昭によみておくりける これたかのみこ
さくらはなちらはちらなむちらすとてふるさとひとのきてもみなくに (74)
桜花散らば散らなむ散らずとて古里人の来ても見なくに
なむ:願望の終助詞。「・・・ほしい」
「僧正遍昭に詠んでおくった 惟喬親王
桜の花は散るなら散って欲しい。たとえ散らなくても昔馴染みの人が来て見もしないのに・・・。」
『伊勢物語』第八十三段によれば、惟喬親王は出家して比叡山の麓に住んでいた。そのために、訪れる人も希で、寂しい生活を送っていたらしい。
桜がまさに満開である。それはそれは見事に咲いている。(「散らば」とあるから、まだ散っていない。)しかし、それが美しいあまり、かえって共に愛でる人がいない我が身が思い知らされ、寂しさがこみ上げてくる。こんなに寂しい思いにさせるなら、いっそ散って欲しいさえ思える。
そう思うと、昔馴染みの僧正遍昭のことが思い出される。彼こそがふさわしい人物である。そこで、散る前に見に来て欲しいと、滅多に来てくれないことへの多少の皮肉を込めながら、詠んで贈ったのである。
コメント
さぁ、私はもう散ってしまえって言ってしまったよ(来るなら今だよ)。「あぁ、美しい」と声をもらしたのでしょう。それに応える人がいない。桜の花びらの零れる音まで聞こえそうな静寂、感動を共有したい友の顔が思い浮かぶ。不遇な人生、それでも分かち合いたいと思う友のあることは幸い。皮肉を込めても嫌味にならない仲、そういう人に伝わればいいと思います。不特定多数に“いいね”って言ってもらわなくても。
私は定年で隠居生活を送っているので、惟喬親王の心情に共感を覚えます。
皮肉が嫌みにならない友がいれば、滅多に逢えなくて寂しくても、不幸ではありませんね。
仲良しの方と満開の美しい桜を一瞬にみたいですよね。
早くこないと散ってしまうよ。
早く会いにきてください。
という気持ちが感じられました。
また、そういう設定で桜の美しさを表現しているとも言えますね。
表現の多様性を感じます。