第四十八段   故実に合った行為

 光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて供御を出されて食はせられけり。さて食ひちらしたる衝重を御簾の中へさし入れて罷り出でにけり。女房、「あなきたな、誰に取れとてか」など申しあはれければ、「有職のふるまひ、やんごとなき事なり」と返々感ぜさせ給ひけるとぞ。

光親卿:藤原氏。後鳥羽院に仕えて、寵愛を受けた。
院:上皇の御所。
最勝講奉行:最勝王経を講ずる法会の責任者。
供御:(くご)上皇の御食膳。
食はせられ:「せ」は、使役の助動詞「す」の未然形。
衝重:(ついがさね)食物を載せる台。ヒノキの白木で四角形に作った。
有職:(いうそく)故実に詳しいこと。また、それに詳しい人。
感ぜさせ給ひ:「させ」は尊敬の助動詞「さす」の連用形。

「光親卿が院の最勝請の奉行をしておりましたのを、上皇が御座所へお召しになられて、その食膳をお出しになって、お食べさせなさった。さて、光親卿は、食い散らかした衝重を御簾の中に差し入れて退出してしまった。女房たちが『ああ、きたない。誰に片付けろと言うのか。』などとみなで言い合っていたので、上皇は『故実に詳しい人の振る舞いは、尊いことである。』と繰り返し感心あそばされたと言うことである。」

光親卿は、上皇から戴いた食膳を食い散らかした上、そのまま戻した。それを女房たちは、非難した。当然の反応である。しかし、上皇はその行為を故実に詳しい人の行為だと感心したと言うのである。
なぜこの行為が素晴らしいのかは、よくわからない。すべて食べたことを見せるのが礼儀だからだろうか。しかし、ともかく故実に合っているのだ。当座の常識よりも故実が重要なのだ。兼好の懐古趣味・権威主義的な考え方がわかる。
前段との関わりから見れば、これも物事を表面的に判断してはいけないという教訓だろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「物事は表面的に判断してはならない」のなら、故実であれば肯定されるという姿勢も、なかなか「表面的」な判断だと思います。
    中国だったか、、皇帝の健康維持の為にありとあらゆる食材を食事毎に供され、当然全部食べ切るはずもなく、下げられたものは下々のもので頂ける。なので皇帝は器に箸を触れるだけして食べたことにして下げさせる、なんていう話を聞いたような、聞かなかったような、、最近では中国でも「食べ残し」を見直す傾向にあるようですが、
    満足の証に「食べ残す」のが中国ではマナーになっていますよね?兼好の時代の中国がそうだったかは知りませんが、それを真似ているのか?とも思いました。それにしても女房の反応を見る限り、食い散らかされ決して褒められたようすではなさそうですね。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、兼好には、有職故事に則っていさえすれば正しいと考える自分の態度への反省は無さそうですね。
      何でもかんでも一応は箸をつけ、食べ散らかし、それを饗してくれた人に見せることが故事に叶っているとは、当時の人でも知りませんでした。
      それを上皇と光親卿だけが知っていて、心を通わせていた。兼好はそれを賞賛する。ついて行けませんね。

  2. らん より:

    なんだかよくわからない世界ですね。
    私にはなにが尊いのかわかりませんでした。私、今、ちょうど、食品ロスについて考えていたところだったのです。綺麗に食べないで散らかしっぱなしなんてとんでもないと思ってました。

    • 山川 信一 より:

      この話は。当時の常識でも変な話だったようです。まして、現代の感覚では、いっそうおかしな話です。
      ただ、こういう権威主義は今でも形を変えて存在します。有識故実に代わって別の権威になっているだけです。本質は変わりません。
      らんさんの身の回りにも、理不尽な権威を振りかざす人はいませんか?

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