山のさくらを見てよめる そせい法し
みてのみやひとにかたらむさくらはなてことにをりていへつとにせむ (55)
見てのみや人に語らむ桜花手毎に折りて家づとにせむ
手毎:一人一人みんなの手。各々の手。
いへづと:家への土産。
「山の桜を見て詠んだ 素性法師
見ただけでこの有様を人に語ろうか、いや、そんなことでは満足できない。この見事な桜の花をそれぞれの手で折って家への土産にしよう。」
見事な山桜を見て感動する。その思いを家族にも味わわせたいと思う。今なら写真に撮るという手もあるが、それでも実物を持って帰るには及ばない。前の歌の場面とは違い、それができるのだからそうしようと促すのである。桜の花は、やはり間近に見て味わうものである。「百聞は一見に如かず」を歌にしたのだろう。
コメント
『伊勢物語』第八十二段の「いま狩する交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、かみ、なか、しも、みな歌よみけり。」この場面を思い出しました。みんな手に手に桜の枝を持って、自分の帰りを待つ家族に行く時以上の浮き立つ気持ちで帰路に着くのでしょうね。
なるほど、そんな気がします。ここでも『古今和歌集』と『伊勢物語』の緊密な関係が見えてきましたね。
貫之は、『古今和歌集』を編集しているうちに『伊勢物語』の構想を思いついたのかも知れません。