題しらす よみ人しらす
いろよりもかこそあはれとおもほゆれたかそてふれしやとのうめそも (33)
色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも
おもほゆれ:ひとりでに思われる。
ぞも:詠嘆を込めて疑う気持ちを表す。・・・だろうかなあ。
「色よりも香りこそがしみじみと心に深く思われるが、一体誰の袖が触れた我が家の梅だろうかなあ。」
我が家の梅は、今年もいい香りをさせている。梅の花は香りが強い。そのため、その色よりも香りに心奪われ、色を十分楽しめないほどだ。その特色、その感動を伝えようとしている。
そこで、その理由を述べることで表す。誰かの袖の香が梅に移ったからだとする。当時の貴族は袖に香をたきしめる、その習慣を踏まえての逆転の発想である。貴族にとって、袖に香をたきしめることは、ありふれた身近な行為であった。ならば、この表現は、奇を衒ったものではない。むしろ、未知のものを既知のものでたとえる自然で素直な表現であろう。
コメント
「梅の香りが袖に移って」という歌の次は「袖の香りが梅に移って」ですか。あの人の袖の香りが移ったから、私の所の梅の香りがここまで芳しいのだ、と言うのですね。「誰か」と言っているけれど、当時は自分の香りに拘りがあって、おおよそ誰かは想像が付くのではないでしょうか。姿より香りの印象の強い梅にこと寄せて、そこにはいない「誰か」の存在へ香りを頼りに思いを馳せる。冴えた梅の香り、袖の君はきっと素敵な人なのでしょう。平安当時は衣類に香を焚きしめていたのですよね。今は袂に匂い袋忍ばせたりしますが、確か匂い袋のことを「誰が袖」って呼んだりしたように記憶しております。
「梅の香りが袖に移ること」があるならば、「袖の香りが梅に移ること」もあるはず。と考えるのが『古今和歌集』的発想なのですね。その大胆な発想に驚かされます。
理が勝ちすぎていると批判されるゆえんです。しかし、発想の自由さを制限することはありません。制限すれば、人の心は死んでしまいます。
芸術は、自由なる想像から生まれるものですから。
理が勝ちすぎる、とは思いませんでした。たった三十一文字の歌が、香りに人を介在させた事で物語性を帯びて梅の香気もより高く感じられて、この歌、私は感動しました。
歌もリアリティをどう出すかが、かなめです。この歌が「香りに人を介在させた事で物語性を帯びて梅の香気もより高く感じられ」たのなら、それに成功しています。
言葉は、現実そのものでない時点で、幻想なのです。言葉のリアリティは常に幻想的です。