第十七段   参籠・精進

山寺にかきこもりて、仏につかうまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

かきこもり:家の中に引き籠もる。「かき」は、動詞の語調を強める接尾辞。
つかうまつる:お仕え申し上げる。「つかえまつる」からの変化。
心の濁り:煩悩。

「山寺に引き籠もって、仏にお仕え申し上げることこそ、やることがなく手持ち無沙汰になることもなく、心の濁りも清浄になる気がするが・・・。」

音楽という楽しみから対照的な参籠・精進へと話題を転じている。
出家するのではなく、在俗のまま、時に参籠・精進することのよさを説いている。十六段の音楽などの趣味もそうだが、何事もほどほどがいい、適度な距離を置き、ゆめゆめのめり込まないようにと考えているようだ。物事のそれぞれのよさを生かしつつ、己を大事にせよと。
ただし、この考えも、己独自の考えと言うよりは、平安貴族の生活を手本にしているようである。兼好法師の尚古趣味の表れと見ていいだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    非日常を時々入れる事でストレスを解消する。それ自体は悪いことではないけれど、自分を追い詰める事なく程々に聖人の「気分を」味わって満足を得る、というあたりが兼好らしいですね。その道を極めようとすれば自分の意思に関わらず誰かとの摩擦も生まれるでしょうし、他者からあれこれ言われるのを良しとしない兼好の考えは、あれもこれもかじってにわか通ぶりたい現代人と通ずるものがあるかも?格好つけたいのですね。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。そう思うと、我々現代人は、兼好法師の考え方を常識としてすっかり身に付けて生きているのかも知れません。
      もしそうなら、『徒然草』・兼好、恐るべしですね。

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