家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一際しみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきららかならねど、木だちものふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くの工の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。
さてもやはながらへ住むべき。又、時のまの烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
後徳大寺大臣の、寝殿に鳶(とび)ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙(かえる)をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか、徳大寺にもいかなる故か侍りけん。
つきづきし:似つかわしい。ふさわしい。しっくりしている。
あらまほしき:望ましい。理想的だ。
簀子:(すのこ)寝殿造りで「廂」の外側に作った縁側。
透垣:(すいがい)板や竹を少し隙間を空けて組んだ垣。
後徳大寺大臣:(ごとくだいじのおとど)藤原実定。一一九一年没。
寝殿:寝殿造りの中心になる南向きの大きい建物。
綾小路宮:(あやのこうじのみや)性恵法親王。小坂にある妙法寺に住んでいた。
小坂殿:妙法寺の別称。
まことや:なにかを思い出して、話題の途中でそれを差し込む時に、最初に置く語。ああ、そうそう。そう言えば。
「住居が住む人に似つかわしく望ましいのこそ、この世は仮の宿とは思うけれど、興を引かれるものであるが・・・。
身分・教養の高い人がのどやかに住みなしているところは、差し込んでいる月の色も、一際しみじみと見えるものだね。現代風できらびやかではないけれど、木立も古びて、殊更手を入れているとも思えない庭の草も趣ある様子で、簀子・透垣の配置も風情あり、ちょっと置いてある道具も昔が忍ばれて心安らかになるのは、奥ゆかしいと見えるが・・・。
多くの職人が心を尽くして磨き立て、唐の、大和の、珍しく、何とも言えない道具などを並べ置き、植え込みの草木まで不自然に作り上げているのは、見た目も不愉快で、大変あじけない。
そのままでいつまでも長く住むことができるか、いやできない。また、時の間の煙ともきっとなってしまうだろうと、ちょっと見るだけでも思われる。大体は、住居によって、主人の気持ちや人柄は推し量られる。
後徳大寺大臣が、寝殿に鳶を居させまいと思って縄をお張りになっていたのを西行が見て「鳶が居たとしても、何が不都合であろうか。此の主人の御心は、その程度だ」と言って、その後は参らなかったと聞いておりましたところ、綾小路宮がおすまいになる小坂殿の棟に、いつだったか縄をお引きになったので、あのエピソードが自然と思い出されましたが、そう言えば、「烏が群れていて池の蛙を取ったので、御覧になって悲しまれてのことだ」とある人が語ったことこそ、それなら素晴らしいと感じられたのだが、徳大寺にもどんな理由があったのでしょうか。」
この段も第一段の「願はしかるべき事」の続きで、今度はありたき住居について言う。内容は、概ね次の通りである。
現代風できらびやかなものはよくない、古風でさりげないものがいい。家具などを含めて凝りすぎない方がいい。住居を見れば、主人の人柄がよくわかる。西行は、屋根に張ってある縄を見て、交際を止めた。しかし、それなりの事情があることもある。外見からの判断は慎重にしたい。
内容は、いかにも兼好法師が言いそうなことである。彼の思考は、常識的で中庸を貴ぶ。見た目についてあれこれいうが、見た目だけに拘るべきではないとも言う。細やかな気配りを忘れない。慎重と言えば慎重だが、主張がどこにあるのか捉えにくい。反論されるのが嫌なのか、議論が深まるのが嫌なのか。前段とガラッと内容を変えたのも、女性についてあれ以上の議論の深まりを避けるためだろうか。
コメント
自分が望ましいと思う事をまず頭に書き出して言い切らず、そこから外れるものに対して如才なくフォローアップ。最初に書かれた事は印象が強いから言った者勝ち、敵を作る事が無いように権威に力添えさせたり、後から主張と異なる考えには何か訳がある、とぼやかしたり。のらくらと思うままに私的に書いている体で実は読まれる前提の文、周到ですね。立ち回りが上手いと言いますか、、。
「わざとならぬ庭の草も心あるさまに」、本当に手入れされている庭こそ、こういった形に「造られている」ものなのですけれど。
「のらくらと思うままに私的に書いている体で実は読まれる前提の文、周到ですね。」まさに言い得ています。兼好法師は自己顕示欲のとても強い人物だったのでしょう。
さりげなく西行を批判して御徳大寺の大臣についてのフォローも忘れていません。しかも、西行批判は、兼好自身の価値を高めます。周到な男です。
いくらでもつっこみどころの有る文章ですね。それこそが『徒然草』の最大の特色のようにも思えてきます。