春のはしめによめる ふちはらのことなほ
はるやときはなやおそきとききわかむうくひすたにもなかすもあるかな (10)
春や疾き花や遅きと聞き分かむ鶯たにも鳴かずあるかな
「春の初めに詠んだ 藤原言直
春が早いのか、花が遅いのか、聞き分けようとする鶯さえも鳴かないのであるなあ。」
早春の季節感を詠んでいる。暦の上では春になっているのに、一向に春らしくない。春と言っても、まだ春が浅いからなのだろうか、それとも今年は花が遅れているからなのだろうか。一体どちらなのか、声を聞いて判断しようと思うが、その鶯さえも鳴いてはくれない。
春になれば、その証である花や鶯の声に期待してしまう。しかし、その証が何も無いのだ。何を手掛かりにして、春を感じればいいのか。春の初めとは、人をこういう気分にさせる季節なのだ。
コメント
「春待ち」とは言いますが、夏、秋、冬はそう言いませんよね?再び生命が輝き始める「はじまり」の時。花の色を探す、見つからない。目を閉じて鶯の声に耳をすます、聞こえない。香りは?頬を撫でる風もまだ冷たいでしょう。今か今かと待ち侘びて「春」と口にして言ってみても、その名だけが「春」。焦がれる気持ちが伝わりますね。
「春」「花」「鶯」と言葉だけでもつぶやいて見たい気持なのでしょう。これもこの時期の「人の一つの心」ですね。
「春待ち顔」とか「春待ち月」と言いますね。ただ、秋にも「秋待つ」という夏の季語があります。夏の暑さに耐えられませんからね。
春ほど待ちどおしい季節はないですものね。
春のはじめは寒いし私も同じことを思います。
鶯がお花の木にとまって鳴いていたら
春だなあって嬉しくなりますね。
せめて鶯に鳴いてほしいと思っているのでしょうね。何の手掛かりも無い名ばかりの春に少しいらだっているのかも知れません。