春の訪れを心待ちにするのは、昔も今も変わらない。太陰暦の頃は、立春と新年が重なっていた。ならば、その日の到来の喜びはいかばかりのものだったろう。それがこの年は、立春の方が早く来てしまった。この歌は、それに伴う例年とは違う《ある思い》を表している。ただし、これは《ある思い》としか言いようのない、つまり、言葉では言い表せない思いである。それは取るに足らないつまらない感情ではない。この歌の手柄は、それに注目して、丁寧に取り上げたことにある。だから、その《戸惑いと喜びにも似たある微妙な感動》を子規のように「つまらない」と切り捨てるわけにはいかないのである。
ここでは、《ある思い》と言い、《戸惑いと喜びにも似たある微妙な感動》と言い直してみたが、それでもレッテルを貼り直したに過ぎない。もっとその思いに迫ってみたい。そこで、似て非なるものではあるが、こんなケースを考えてみる。
若い同棲カップルがいる。籍は入れてないけれど、事実上の夫婦である。ある時、女性は自分が妊娠していることがわかった。《驚きと喜びと戸惑いの混じり合ったような思い》が生まれた。さて、《この思い》をどう表したらいいのか。それ自体を言葉で説明することは不可能である。そこで、彼女はこんな短歌を作ってみた。
《確かなる命生まるる未知の身を妻とや言はむ母とや言はむ》
思い(観念)は、それ自体を言葉に置き換えることができない。そこで、様々な表現の工夫がある。この歌は、「年の内に春は来にけり」という事実に対する喜びを「一年を去年とや言はぬ今年とや言はん」という表現で表しているのである。
コメント
「年末の忙しい時に、あら、春が来てしまった、春を迎える支度がまだ出来ていないのに、、」と口では言っても何かそわそわ楽しげな、そう、そのソワソワ感が正に春らしく、心のささやかな揺らめきをこんな形で切り取れるのはやはり歌詠みの心を持っての事なのでしょう。見落としがちなささやかなもの、何気ない日常の中にこそ喜びや美しさがひっそりと住っているものですよね。
私たちは、様々な場面で似たような思いをします。たとえば、大学の入学試験に合格して、高校の卒業式も終わります。でも、大学の入学式はまだです。今の自分を大学生と言おうか、高校生と言おうか、その中途半端さがなんとも嬉しくこそばゆい感じです。
和歌はこういうささやかで微妙な思いを発見して歌うものです。その詩情を丁寧に味わいたいですね。