『古今和歌集』巻第一 春哥上

ふるとしに春たちける日よめる         在原元方

としのうちにはるはきにけりひととせをこそとやいはむことしとやいはむ (1)

年の内に春は来にけり一年を去年とや言はぬ今年とや言はん

「年内に立春が来た日に詠んだ

年の内に春が来てしまった。(太陰暦では、新年と立春とが一致するのが原則だが、たまに年内に立春が来ることがある。)この一年(の出来事)を去年のことと言おうか今年のことと言おうか。」

よめる:「よみ+あり」が一語化したもの。その連体形で、次の歌全体を一つの名詞に見立てて修飾している。

では、この歌はどのような感動を表しているのだろうか。どう共感したらいいのか。正岡子規は、この歌を『歌よみに与ふる書』の中で次のように批判している。
「先づ『古今集』といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年こぞとやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆あきれ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合あいの子こを日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。この外の歌とても大同小異にて駄洒落だじゃれか理窟ツぽい者のみに有之候。」
貫之が『古今和歌集』の巻頭の歌に選んだのである。「つまらぬ歌」であるはずがない。なるほど、理屈を述べてはいる。しかし、それは、子規が唱える写生もそうであるように、感動を伝えるための一手段である。肝心なのは、伝えようとしている感動(の質)である。この歌によって、伝えようとしている感動はそれほどつまらないものであろうか。
子規に次の俳句がある。「毎年よ彼岸の入に寒いのは」これは、母の言葉をそのまま俳句にしたと言う。「暑さ寒さも彼岸まで」とは言うが、実際はそうでもない。それを言う、この俳句の季節感には素直に共感できる。
それに対して、現代人には太陰暦による新年と立春のズレはピンとこない。したがって、この歌の思いは共感しづらい。しかし、歌は「人の一つの心」を詠んだものである。共感できないはずがない。どう捉えたらいいか。

コメント

  1. すいわ より:

    春待ちの気持ちというのは時代や場所が違っても変わりませんよね。新年を迎える前に「春」が訪れて二つの春をどう扱おうか?というのがなんともユーモラスです。
    飛躍し過ぎかもしれませんが「新年に 先駆けて 訪れる春」を「天皇の御世に 初めての(勅撰) 和歌集」ととらえると、この歌を巻頭に据えるのはあながち間違っていないように思えます。

    • 山川 信一 より:

      この歌が表す感動は、非常に微妙なものですね。それを取り上げて見せたのです。すいわさんがユーモラスと思うのもわかります。たわいの無い思いと言えば思いですから。
      しかし、それを大切に扱っているのです。子規のように、つまらないとか、取るに足らないとか言って、退けるべきではありません。
      天皇・初めての勅撰和歌集を暗示するというのは、興味深い読みですね。

  2. らん より:

    正岡子規、古今和歌集をけちょんけちょんにけなしてますね。
    私はなかなかいい歌だと思ったのですが。

    • 山川 信一 より:

      どの辺りがいいと思いましたか?
      和歌は、ささやかな思いを捉えて歌うのに適した表現形式なのです。

  3. らん より:

    春が来てすごく嬉しいけれど、1つの年に2つの春で、なんか変な気持ちだなあと思っているところが素朴でいいなあと思いました。

    • 山川 信一 より:

      いつもとは違うことはいつもとは違う気持ちにしてくれます。
      その微妙な違いを見逃さず取り上げました。言われてみれば、なるほどと思わされます。

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