このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。しかあれども、世につたはることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり、あらかねのつちにては、すさのをのみことよりぞ、おこりける。ちはやぶる神世には、うたのもじもさだまらず、すなほにして、ことの心わきがたかりけらし。ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。かくてぞ、花をめで、とりをうらやみ、かすみをあはれび、つゆをかなしぶ心、ことばおほく、さまざまになりにける。とほき所も、いでたつあしもとよりはじまりて、年月をわたり、たかき山も、ふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたも、かくのごとくなるべし。なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。
ひさかたの:「あめ」にかかる枕詞。
したてるひめ:記紀に見える神。大国主命の娘。
あらかねの:「つち」にかかる枕詞。
すさのをのみこと:記紀・風土記に見える神。天照大神の弟。
ちはやぶる:「神」にかかる枕詞。
すなほにして:飾り気がなくありのままであるさま。素朴。純朴。
ことの心わきがたかりけらし:言っている意味がわかりにくかったらしい。
なにはづのうた:難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
あさか山のことば:安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
うねめ:上代の後宮の女官。天皇の食事の世話などをした。
「このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。」と、和歌はこの世界が生まれるのと同時に生まれたと言う。これは、和歌の起源に触れ、それが由緒正しいものであることを言うためである。そして、以下、その後の流れを述べる。これにより和歌の歴史的正統性を訴えている。
「ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり」と「あらかねのつちにては、すさのをのみことよりぞ、おこりける」は対句的表現になっている。「あめ(天)」と「つち(地)」は、神の世と人の世を表している。
神代には、五音七音を基本とする形も定まっていなかったので、言葉の意味がわかりにくかったらしい(「らし」は根拠のある推定。)それが人の世になって、スサノウの尊より、三十一音に定まった。こうして、多くの歌が読まれることになった。
「ことばおほく、さまざまになりにける」は、書き出しのの「よろづのことのはとぞなれりける」を言い換えたもの。歌の形式が定まったお陰で和歌が栄えたと言う。
貫之は、定型を重んじていることがわかる。『土佐日記』(一月十八日)に次のようにある。
「ある人の又聞き耽りて詠める。その歌詠める文字三十文字余り七文字、人皆えあらで笑ふやうなり。歌主いと気色悪しくて怨ず。まねべどもえまねばず。書けりともえ読み敢へ難かるべし。今日だに言ひ難し。まして後にはいかならむ。」
定型であることが和歌の基本であり、これは厳守すべきだあると考えている。
「うたのちちはは」として、天皇(男)と女官の歌を取り上げているのは、貫之の価値観の表れだろう。権威主義と言えば、権威主義である。しかし、この歌集が勅撰であれば、当然の態度である。
コメント
漢詩の方が価値が高いとされる世の中で「天より人に授かったもの」を人の扱いやすい言葉のリズムにかっちりと形を整え広める。貫之は「和歌ブランド」を立ち上げた訳ですね。ブランドアイコンには天皇と女官を持ってきて、依頼人の満足も叶えつつ、和歌に親しむ人には、和歌が漢詩に引けを取らない由緒正しい歌の形であるという保証書を付けて。頭のいい人はやる事がちがいますね。
本当にその通りですね。貫之が現代に生きていたら、スティーブ・ジョブズぐらいのことはやってのけたかもしれませんね。
この世界が出来上がった時から和歌はあるんですね。
うわあ、すごいなあ。
スサノオの命とか出てきてる、古事記ですか。私、歴史の話、大好きなんです。
和歌とはこんな昔からあるものなんですね。歴史の古さがわかって感動しました。
五七五七七という歌の形式は、実際いつの頃から出来たのでしょう。少なくとも、奈良時代にはありました。『万葉集』に初めには「三四五七五」などのリズムの歌が載っていますが、一種のヤラセです。
歌は最初から五音と七音の組み合わせで作られていました。日本語の必然からそうなります。