十六日、かぜなみやまねばなほおなじところにとまれり。たゞうみになみなくしていつしかみさきといふところわたらむとのみなむおもふ。かぜなみともにやむべくもあらず。ある人のこのなみたつをみてよめるうた、
「しもだにもおかぬかたぞといふなれどなみのなかにはゆきぞふりける」
さてふねにのりしひよりけふまでにはつかあまりいつかになりにけり。
問1「しもだにもおかぬかたぞといふなれどなみのなかにはゆきぞふりける」を鑑賞しなさい。
問2「なりにけり」とは、どういう思いか、説明しなさい。
ここは南国土佐。霜さえ置かぬ暖かな所と聞いていたけれど、海を見ていると、白い波頭の小山がいくつも見える。霜どころか、何と浪の中に雪が降っているではないか。ここには、京にいては、知ることのできない風情があるのだ。
風浪という自然現象はいかんともしがたいもの。船を出すことができない。人間は自然に従うしかないのだ。けれども、ただじっと、なされるがままではいたくない。そこで、その状況を題材に歌を詠むことで、人間の主体性を取り戻そうとしている。
そもそも、人間は、理不尽な状況の中に生きている。しかし、芸術によって、主体性を取り戻すことができる。こっちから意味付けてやるのだ。ここで初めて人間は、理不尽な状況と対等な関係になれる。貫之は、それを芸術の根本的存在意義だと考えている。(問1)
一方、書き手である女は、現状をただ単にぼやいている。「ああ、気づけば出発から二十五日も経ってしまったんだなあ。」と。これも自然な人間の姿ではある。しかし、この言葉で、歌を詠む「ある人」との違いが際立つ仕掛にもなっている。「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。「ける」は詠嘆(気づき)の助動詞「けり」も連体形。(問2)
コメント
なるほど、波を見て新たな発見に心震わせる人、抗い難い自然の力に悲嘆する人、見事に対照的で書き手と歌い手、それを演じ分ける本当の書き手の貫之の巧妙な書き口。感服します。先の子供の歌と対照して大人だったらこれくらいの歌を詠んでみないと、というくらいに思って読んでおりました。納得です。
都と地方、歌詠みにとっては日々心に映る感動に差など無いし、どんな環境に置かれても常に事柄に刺激され、反応できる心を持っている、その事が貫之の矜持なのでしょう。
貫之が中央の歌人たちに歌の可能性を見せつけているというのは言いすぎでしょうか?狭い貴族社会から出ようとはしないで、その範囲でしか歌を作ろうとしない者たちを批判している。
そう思うと、『土佐日記』を書いた目的の一つが見えてくるような気がします。既成の歌への批判であり、歌の革新とその実践を目指しているのではないでしょうか?