をとこもすなる日記といふものを をむなもしてみむとてするなり。それのとしのしはすのはつかあまりひとひのいぬのときにかどです。そのよしいさゝかものにかきつく。あるひと、あがたのよとせいつとせはてゝれいのことゞもみなしをへて げゆなどとりて すむたちよりいでてふねにのるべきところへわたる。かれこれしるしらぬおくりす。としごろよくくらべつるひとびとなむわかれがたくおもひてそのひしきりにとかくしつゝのゝしるうちによふけぬ。
問1 傍線部を「すなる」と「するなり」の相違を踏まえて現代語で言い換えなさい。
問2 以上を通して、気付いたことがあれば記しなさい。
コメント
男も書く(する)という「日記」というものを女も書いてみよう!と思って書いてみます。
男の人の書き記す日記を女の人も真似て書きつけてみよう!という事なのでしょう。女の人が書いているという体なので「日記」以外の表記は平仮名で綴られている。
私たちは紀貫之が、書き手が男だと知っているけれど、もし、本当に女の人が書いたのなら、
「をとこ“も”すなる」でなく、「をとこ“の”(が)すなる」というのではないかしら、と思いました。をとこも、だと女の人も日記は書き綴っていた前提になりませんか?男の書いている日記というもの、女も書いてみよう!と言っている事と矛盾が生じているように思えるのですが。
おっしゃるとおりです。それが母語である日本語表現に対するまっとうな感覚です。古文を読む時もそれを忘れてはなりません。
決して、外国語のように読んではなりません。「も」は実に不自然な表現です。