余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍《かばね》を抱きて千行《ちすぢ》の涙を濺《そゝ》ぎしは幾度ぞ。大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢と議《はか》りてエリスが母に微《かすか》なる生計《たつき》を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
「病気が治った豊太郎は、エリスの母親にこれからの生計が営めるだけのお金を渡す。そして、日本に帰ってくる。それがこの日記を書いている今の豊太郎だ。その判断をどう思う?」
「責任はお金で取ったんだね。こんな責任の取り方でいいのかなあ?母親はよく受け入れたね。エリスの母親の人物像からすればあり得る。物事に対して感情的にならないからね。その意味で、物事をすべて合理的に割り切れる相沢に似ているかもしれない。」
「豊太郎はエリスを「生ける屍」「あはれなる狂女」と言っている。これをどう思う?」
「豊太郎にとって人格を失ってしまったエリスは、もはや愛の対象ではなく、哀れみの対象でしかないんだ。自分の気持ちに素直と言えば素直だけど、現金な態度だよね。」
「お金で済ませようとするところが許せない。道義上の責任をとってドイツに残り、自分の子を育てるという選択はできなかったの?どうも鼻からそんな考えはなかったらしい。良心というものは無いのかな?」
「日本人にとって「良心」とは、神の目ではなく人の目を気にすることなんだ。そして、この場合、豊太郎が気にするのは、相沢や天方伯の目なんだ。」
ここに及んでも、豊太郎はどうしたらいいのか自分では決められなかった。もちろん、相沢には迷いなど無い。選択の余地は無いのだ。後はどう処理するかだけだった。豊太郎はそれに従うしかなかった。
それにしても、この場合の豊太郎の大義名分は何だろう?「盗人にも三分の理」と言うではないか。恐らく豊太郎はこんな風にこじつけて、自分を納得させたのだろう。
自分は、エリスと天方伯とではどちらがより役に立つか?エリスはもはや自分を認識すらしてくれない。それに対して、天方伯に就けば、天下国家の役に立てるのだ。ならば、こちらを取るべきだ。虫のいい理屈だけど。
では、生まれた子はどうなるのか。「生まれむ折りの事」という言葉が気になる。頼んだのはそのことだけだ。結局、里子に出されるのだろう。混血の子はきっと差別を受けて辛い人生を歩むことになるだろう。それこそ豊太郎にはわかっていたはずなのに。
どこまでも他人任せなのだ。自分の価値は他人が決め、それに従って生きる。それが典型的日本人、太田豊太郎なのだから。
コメント
「豊太郎にとって人格を失ってしまったエリスは、もはや愛の対象ではなく、哀れみの対象でしかないんだ」、言いたい事はほぼ部員の皆さんが言ってくれたのですが、上の一言、「エリスにとって人格を失ってしまった豊太郎は、もはや愛の対象ではなく、哀れみの対象でしかないんだ」なのだと思いました。エリスを道具にして恋人が狂人になってしまった可哀想な自分を演出している。エリスにとって、父の死に途方に暮れていた時、欲得なく手を差し伸べてくれた、教養の無い自分を教え導いてくれたのが豊太郎だった。今の豊太郎はエリスにとって豊太郎の形をした虚なヒトガタでしかない。だから豊太郎を認識しない。豊太郎がドイツで手にした地位というモノはいつでも失うものだけれど、エリスは愛を注ぐ対象を得ることが出来る。自分の恋人、子供のことすら自分で決めかねて、友人の言った通りにしか出来ない人より、生まれた時点のことしか考えず、育っていく子供を思い描けない人より、エリスの方が余程頼りになる。頑なに家を離れる事を拒絶したエリス、きっとその手で子供を育てて行くのではないでしょうか。
その後のエリスの物語が知りたいですね。精神の作用は失いながらも母性本能だけは失わず、子を育てるエリス。成長した子は、どんな子に育つのでしょう。
いつの日か日本に豊太郎を訪ねるのでしょうか。豊太郎はどんな顔をして迎えるのでしょう。物語は、終わっていません。新たな始まりを予感させます。
それは西洋と日本の物語でもあるような気がします。