頼みし胸中の鏡は曇りたり

嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。恥かしきはわが鈍《にぶ》き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人《ひと》の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。

「豊太郎はこの手紙を読んで始めて、今自分がどういう位置にいるのかを悟ったと言う。それを自分で「鈍い心」と評している。また、自分には決断力が無いとも言っている。これをどう思う?」
「じゃあ、今までは、エリスとの関係をどう思っていたんだろう。この問題から逃げようとしていたよね。だから、ロシア行きは都合がよかった。それで目を逸らすことができたからね。国際舞台での活躍は、今の自分を正当化するのに役立った。」
「これは当時の自分を帰りの船で評しているのだろけど、当時はこのことに気付かなかったんだろうか?そんなことないよね。卑怯な男だ。」
「エリスはエリスで、何でこんな重要なことを手紙で言ってくるんだろう。これまで少しでも、二人の将来のことを話したりしなかったのはどうして?」
「エリスは、豊太郎のホントの気持ちを知ることが怖かったんだよ。相手の気持ちが怖くて、自分からはなかなか言い出せない事ってあるよね。」
「エリスにしても、こうして離れて始めて、自分の気持ちに気づいたんじゃない。」
「エリスには、豊太郎の本音がわかっていたんじゃないかな?愛する人の心はわかるものだからね。だから、自分を忘れさせないように連日手紙を出したんだ。」
「豊太郎は逆境にあっては、「我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。」と言うけど、筋が通らない。自分の気持ちを誤魔化している。わかっていて、決断しなかっただけじゃない?あるいは、決断しないために、わざと鏡を曇らせる、つまり、事態をしっかり認識しようとしなかったんじゃないの?」
豊太郎は、甘いなりに自己分析は出来る。ただし、自分を変えられないものと決めつけてしまっている。だから、そこから踏み出そうとはしない。エリスはエリスで、そんな豊太郎の核心に迫ることを恐れていた。ギリギリのところまで追い詰められなければ、本音が言えなかった。それも手紙で。豊太郎を目の前にして、問い詰めるべきだ。美しいロマンにこだわっているのかな?

コメント

  1. すいわ より:

    筋書き通りにならない豊太郎との関係、お腹の子の成長は容赦なく現実を突き付けてくる。追い詰められるエリス、豊太郎へ手を伸ばすけれど、豊太郎はその手に内心、気付かなかった事にしたい。振り払う勇気もない。自分はダメなやつなんだ、と自分を責めている風だけれど、その優しさはエリスにとっては苦い毒、豊太郎をなじる隙さえ与えてやらない事になる。お互いがお互いの本心に気付きながら見たくないものを見ようとしないままどんどんすれ違って行く。重要なことは面と向かって伝える努力をしないと伝わりませんね。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎とエリスに共通していることがあります。それは相手に面と向かって本心を訴えないことです。
      二人とも、どこかでかっこつけているのです。無様な姿を見せられないのです。「恋は美しき誤解。結婚は惨憺たる理解。」と言います。
      豊太郎はもとより、エリスにもそれがわかっていません。

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