一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦《あす》、魯西亜《ロシア》に向ひて出発すべし。随《したが》ひて来《く》べきか、」と問ふ。余は数日間、かの公務に遑《いとま》なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」余は我恥を表はさん。此答はいち早く決断して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟《とつさ》の間《かん》、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その為《な》し難きに心づきても、強《しひ》て当時の心虚なりしを掩《おほ》ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。
「一ヶ月後、大臣から突然ロシア行きを告げられ、一緒に付いてこられるかと問われる。それも、明日出発すると言う。大臣は、なぜこんな間近になって尋ねてきたのだろう。」
「それまでは豊太郎の能力を見極めていたんだよ。連れて行くほど使えるかどうかを試していたんだ。だからギリギリになってしまった。」
「それもあるけど、豊太郎の能力の高さは直ぐにわかったはず。これは、豊太郎の忠誠心を試したんじゃないかな?自分の命令をどの程度聞くかどうかを試したんだ。つまり、人にはいろいろ事情は有るよね。それでも、自分を最優先するかどうかを試したんだ。大臣は人を使うのが上手そうだね。もしかしたら、相沢にその話をさせないためにしばらく相沢を遠ざけたのかも。」
「豊太郎は即答して承諾した。「いかで命に従はざらむ。」って、どういう意味かな?」
「これはは反語だね。「どうして閣下のご命令に従わないことがありましょう。あろうはずがありません。」って言うんだ。すごく強い肯定になっている。」
「しかし、これは恥だと言っている。それは、よく考えて返事をした訳ではないからだ。豊太郎はその理由を次のように言う。信頼している人から、急にものを聞かれた時には、その瞬間答えの及ぶ範囲をよく考えないで直ちに承諾することがある。そうして、承諾した後で、それを実行することが難しいことに気付いても、無理にその時よく考えなかったことを隠して、我慢してこれを実行することがしばしばある。これをどう思う?」
「豊太郎は、自分が信頼している人には、いい顔をしてしまうんだ。自分を殺して、人間関係を最優先してしまう。これってどうなんだろう。」
「それに、信じるか信じないかで決めるのって、思考を停止するってことだよね。それは「恥」だな。」
豊太郎にも、こうした態度がよくないという自覚はある。生きるって、自分を他人にただ合わせることじゃない。折り合いをつけていくことだ。だから、「恥」と言っている。わかっていても、改められないのはなぜなのだろう。自分を既にできあがっているものとして捉えている。自己分析するのはいいけど、そこに留まっているだけでは進歩が無い。鷗外は豊太郎に託してこういう人を批判しているんだろうな。
コメント
豊太郎の語学の能力については問題ない、人物的にはどうか。相沢の入れ知恵無しに自分の要求にどう受け答えるか。オウムのように自分の言う通りを返す豊太郎に大臣はこいつは使える、と満足した事でしょう。その場の空気で首肯してしまう自分を恥としているけれど、信じると決めたのは豊太郎自身で、言い訳にしか聞こえません。本心から信じているかといえばそういう訳でもなさそう。自分の事なのにしっかり判断を下せないと分かっていて改めない。エリスにも、相沢にも、大臣にも、誰に対しても色良い返事をして、心ではこなす事に必死でジタバタ、じぶんの意に添わないことをこなして行かねばならず行き詰まる。苦しいのは自分だけだと思っているのでしょうか。誰も傷付けたくない、という煮えきらない態度がむしろ相手を傷つけている事に気付かないのですね。
上に立つ人は、能力がある上に自分に忠誠である人を求めます。この時の豊太郎はそれにぴったりの人物でした。天方伯はそれを確認したかったのです。満足したでしょう。
豊太郎は弱い人間です。ただ、豊太郎を非難できる資格のある人がどのくらいいるでしょうか?こういう人ばかりではないでしょうか?
豊太郎はまだそれに気付いているだけましなのかもしれません。これは、鷗外の日本人批判です。
豊太郎の気持ち、わかります。
はいとしか言えない時って、私にもあります。
エライ人は、こうやって他人を操っていきます。
それに抵抗するのは難しいですね。
大臣は豊太郎の忠誠心を試したのですよね。
豊太郎の気持ち、わかります。
いいよとしか言えない時って、私にもあります。
いい顔したいんでしょうね。
よく考えもせずに。
豊太郎は、行くと言ったことで、その気持ちに背中を押してもらうのでしょうか。
エリス、辛いですね。
自分をしっかり持つことの重要性がここにあります。
それを持っていないと、いざという時に周りに流されてしまいます。
迷ったら、「ちょっと待ってください。少し時間をください。」と言いましょう。
その場で、いい格好をしないことが大事です。