余は心の中に一種の寒さを覚えき

 別れて出づれば風面《おもて》を撲《う》てり。二重《ふたへ》の玻璃《ガラス》窻を緊しく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、膚《はだへ》粟立《あはだ》つと共に、余は心の中に一種の寒さを覚えき。
 飜訳は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比《ちかごろ》故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。

「ドイツの冬は寒さが厳しいんだね。ホテルは二重ガラス窓になっていて暖房完備だけど、午後四時になるともう耐えがたい寒さなんだ。ホテルを出たのが四時ということは、ずいぶん長く話していたんだね。「余は心の中に一種の寒さを覚えき。」とあるけど、何がわかる?」
「豊太郎が罪悪感を持っていたこと。エリスを裏切る約束をしてしまったからね。」
「「飜訳は一夜になし果てつ。」からわかることは?」
「豊太郎の語学能力の高さ。豊太郎にすれば、どうってことの無い容易い仕事だったんだ。」
「それから段々、天方伯の態度が次第に打ち解けていくね。豊太郎に意見を求めたり、笑い話までしたりするようになる。ここからどういうことがわかる?」
「豊太郎が能力を示すことに成功して、大臣も気を許すようになった。この男は使える、親しくなる価値があると思っている。」
「相沢の方針の通りになっていったね。」
 豊太郎は、どう思っていたのだろう?大臣に認められるようになったのだから、嬉しいには違いない。だけど、エリスのことがある。相沢には別れると約束してしまった。当然大臣の耳にも入っていることだろう。しかし、自分からエリスと別れることなどできない。しかも、エリスは妊娠しているのかもしれないのだ。決断を先延ばしにして、悶々と日々を送っていたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「風面を撲てり」とはよく言ったもの、北の地の冬風の冷たさは寒いと言うより「痛い」のです。政治の世界など今更興味はないよとエリスには言って出てきたのに、エリスとは別れると友には約束して帰途につく。二重の玻璃窓の一枚は相沢、もう一枚はエリス。内と外、豊太郎はどちらかを選ばねばならない状況に立たされる。一歩外に、エリスの側に出れば、そこは厳しい世界。豊太郎を守ろうとするエリスはいるけれど、万全とは言えない。身に纏う心許ない外套がそれを象徴しているかのようです。エリスに対する心の痛みは感じている、でも、大臣との会合を重ねるにつれ、大臣の望む以上の能力を持つ自分を再確認し、自分の有用性に自信を持ち始めている。あちらからもこちらからも手を引かれ、でも決めかねて。誰も決めてはくれないのに。

    • 山川 信一 より:

      二重窓に守られて暖房の効いたホテルとあの寒い屋根裏部屋、これは豊太郎の選択を象徴していますね。この時、その違いを思い知ります。
      一方、自己の有用性を認識することは、豊太郎に満足を与えました。エリスが自分を必要としていることはわかっています。しかし、天方伯も同様です。しかも、その方が満足を与えます。
      豊太郎は、自分を生かしたい、より自分にふさわしい生き方をしたいと思っています。ならば、どちらを選択するか、答えは明らかです。ただ、道義上エリスを棄てられないのです。

  2. すいわ より:

    全くの蛇足なのですが、当時、大臣の元で働くのに、豊太郎のような立場の人がドイツ人の妻を持つことに問題ってあったのでしょうか。確か新渡戸稲造はアメリカ人と結婚していたなぁと思いまして。鴎外と新渡戸に関わりがあったかどうか知りませんが、新渡戸が太田姓を名乗っていたことが確かあったなぁと思い出しました。

    • 山川 信一 より:

      ドイツ人を妻にすること自体に問題があったわけではないでしょう。欧米人は格が上だという認識がありましたから。もちろん、習慣上の抵抗はあったでしょう。
      ただ、エリスの場合、身分が問題だったのでしょう。貧しい踊り子でしたから。その上、その出会いにはスキャンダルが伴っていましたから。
      「太田」という性を用いたのは、アメリカ人を妻にした新渡戸稲造を意識してのことでしょう。鷗外はそれもあり得るのだと言いたかったのかもしれません。
      鷗外には、留学中にドイツ人の恋人がいて、彼女は日本までやって来ました。しかし、森一族の反対で結婚できませんでした。『舞姫』はそれを題材にして書いています。

      • すいわ より:

        回答ありがとうございました。「チップス先生、さようなら」という小説が好きで、主人公の全寮制学校の先生は女優と結婚して周囲を驚かせていましたが、豊太郎も「私の妻ですが、何か?」くらい言える図太さを持ち合わせていたら。エリスを導き共に学ぶ人生を送れたら幸せなのに。豊太郎にそんな器はありませんね。人を愛する術を知らない。不幸な人ですね。

        • 山川 信一 より:

          実は、周りの人にしても、それほど自分の判断に自信が無いのです。だから、数を頼んで示し合わせながら、圧力を掛けるのです。
          ですから、開き直った人には、意外に抵抗できません。豊太郎はそれがわかっていません。ちなみに、私はそれが出来るようになりました。

  3. らん より:

    頑丈で暖かいホテルとみすぼらしい寒い屋根裏部屋。
    これから選択することを象徴してますね。
    勿論、自分のことを評価してくれるほうにいくのは明らかです。
    でも、エリスを捨てる自分に豊太郎は耐えられるかなあ。
    そんな自分は嫌でしょうから。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎は、まさにその二つの間に挟まれて苦しんでいます。
      本当に自分が望んでいるものが何なのかがわかっていません。
      だから悩みます。

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