友に対して否とはえ対へぬが常なり

 大洋に舵《かぢ》を失ひしふな人が、遙《はるか》なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼《はうしん》なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽しきは今の生活《なりはひ》、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑《しばら》く友の言《こと》に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対《こた》へぬが常なり。

「豊太郎は、自分を大洋の中で舵を失った船人にたとえている。相沢が示してくれた方針は、陸地が見えたような救われた気分だった。ただ、その方針は漠然としていて、実行できるかどうかはわからない。いや、仮にそれができたとしても、心から満足を与えるかは定かではない。豊太郎は、なぜこう思うの?」
「相沢が示してくれた方針は、今の豊太郎にとって、実にありがたいものだったけど、それは達成できても、以前のような暮らしに戻るなら満足できないから。もう役人の生活には戻りたくないと思っているんだ。」
「「貧しき中にも楽しきは今の生活」からは、どんなことがわかる?」
「思うように学問ができないのは辛いけれど、民間学にある程度の満足を覚えているんだ。給料は少ないけれど、生きた仕事をしているからね。結構、新聞社の通信員の仕事が気に入っているんだ。」
「「棄て難きはエリスが愛。」からは?」
「〈エリスへの愛〉とは言っていない。〈エリスへの愛〉なら棄てることができるんだ。「エリスが愛」というのは、〈エリスからの愛〉という意味だ。つまり、エリスに愛される心地よさを棄てられないってこと。いい気なもんだね。」
「確かに、エリスから愛されるのは心地いいだろうね。事実としてそうなんだろう。でも、ここで豊太郎が「棄て難きはエリスが愛」と言うのは、自分を愛してくれるエリス、そのエリスを棄てられないという意味だ。なぜなら、エリスにとってそれ以上に残酷な仕打ちは無いからね。言わば、エリスに自分を愛させてやりたいと思ってるんだ。」
「なんて傲慢なの!」
「豊太郎は、弱き心と自覚しているように決断力に乏しい。すごく優柔不断な男だ。だから、どうしていいのか決められない。そこで、取り敢えず目の前の友の言葉に従うことにする。敵には抵抗できるけど、友には逆らえないからだと言う。これをどう思う?」
「豊太郎は、相沢から悪く思われる訳にはいかない。ここで突き放されたら、名誉を回復する機会を永遠に失ってしまうから。しかも、友達から悪く思われること自体が怖いんだ。もちろん、エリスから悪く思われたくもない。要するに、行動の基準が他者の感情にある。」
「そこからどういうことがわかる?」
「孤独が何よりも怖いんじゃない?情けないけど、その点は、あたしたちもそうだよね。豊太郎と一緒。」
 世の中には割り切れないことがいくらでもある。生きるってその連続かもしれない。こういう時ってどうしたらいいんだろう。一方を切り捨てていかなければならないんだろうか。

コメント

  1. すいわ より:

    あれも欲しい、これも欲しい。手に入れたものは手放したくない。あちらでもこちらでも良い人に見られたい。悪者にはなりたくない。孤独を怖がりながらも、意識は常に自分一人に向いている。前回のコメントで相沢の提案の内容は既に豊太郎も考えていたはず、とご指摘頂いたのですが、確かに相沢に語らせる事で自分の意思決定の責任を回避出来ますね。職を失った時もエリスに手を引かれ、なし崩しに同棲、今回も相沢に言われるがままエリスとの関係を断ち切ろうとしています。自らの意志で舵を取らない限り、荒波に飲まれるが如く周りに翻弄されて結局自分の姿を見失ってしまう。自分の行動の責任は誰かに贖ってもらうものではない事をそろそろ豊太郎気づかないと。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎の優柔不断さは、必ずしも自己中心的だからとは言えません。あちらも立てたい、こちらも立てたいという優しさから来るものです。それは、結局自分が傷つきたくないからと言ってしまえば言えます。
      しかし、自分だけでは無く、誰も傷つけたくないのです。言わば博愛主義に近いものがあります。エリスへの愛もそこから生まれています。
      確かに「責任」については、甘いところがあります。進んで取ろうとはしません。出来るならば回避しようとします。日本人を象徴しているかのようです。

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