或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居《けうきよ》に帰らんと、クロステル巷《かう》の古寺の前に来ぬ。余は彼の燈火《ともしび》の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷《こうぢ》に入り、楼上の木欄《おばしま》に干したる敷布、襦袢《はだぎ》などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太《ユダヤ》教徒の翁《おきな》が戸前《こぜん》に佇《たゝず》みたる居酒屋、一つの梯《はしご》は直ちに楼《たかどの》に達し、他の梯は窖《あなぐら》住まひの鍛冶《かぢ》が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字《あふじ》の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
「ある日の夕暮れ、動物公園を散歩して、ウンテル、デン、リンデンの大通りを過ぎ、モンビシユウ街の下宿に帰ろうと、クロステル街の古い教会の前に来た。「彼の燈火の海」はウンテル、デン、リンデンのきらびやかさをたとえている。クロステル街は対照的に暗いところらしい。そこは、高い建物の手すりに敷布や下着を干してある人家、頬髭が長いユダヤ教徒の老人が店の前にたたずんでいる居酒屋、一つの階段はそのままに高い建物に延び、他の階段は地下室住まいの鍛冶屋の家として使われている貸家に向かって、凹字の形に引き込んで建てられている、この三百年前の遺跡をみる度に、心が恍惚となってしばし佇むことが何度何度もあった。豊太郎は、華やかな大通りより、薄汚れた裏町に引かれるんだ。どんなことがわかる?」
「都会っていうのは、上辺だけの美しさだからね。虚栄に過ぎない。クロステル街には、本当のドイツがあったからだよ。」
「日本にやって来る外国人が東京よりも京都などの日本らしさに惹かれるのと似ているね。それどころか、今では田舎が好まれることもあるらしい。都会はどこも似ているので、個性的な魅力に欠けるからね。」
これは、豊太郎が自我に目覚めたことの一面だ。豊太郎は歴史文学が好きだから、いよいよ自分の好みがはっきりしてきた。一方、それに伴い、物事の本質が見えてきたのだ。
コメント
煌びやかであくせくと目まぐるしい都会と違って、そこには連綿と受け継がれた素朴な「人」の暮らしが息づいていたのでしょう。心臓の鼓動が刻むリズムと変わらない穏やかな時の流れに身を沈める心地よさを豊太郎は感じたのではないでしょうか。国が変わってもそうした下町の情緒は変わりませんね。洗練されてはいないけれど、生活の匂い、音が感じられます。肩書きなどない市井の人の暮らしにこそ豊太郎は価値を感じている、その暮らしを守ろう、と思って政治家になるのなら、きっとそれは良い選択になったでしょう。でも、私が母なら、歴史文学を手放さないで欲しいです。好きなものを好きと言える方がいいし、目指すものを諦めないで済むように出来る限りの助力はしたいけれど。豊太郎の母の願いは、、、豊太郎の希望<母の願い、なのでしょうね、、
この頃、豊太郎は出世についてどう思っていたのでしょう?それは母の願いを叶えることでもありました。
自分としては、それらから解き放たれたように感じていたのでしょう。出世などどうでもよくなっていたに違いありません。
これからは、自分は自分らしく生きようと、思い切り自由を謳歌していたのでしょう。「恍惚」となって佇んでいることからわかります。
しかし、本当にそうであったかどうかはこれからわかってきます。