五年前の事なりしが、平生《ひごろ》の望足りて、洋行の官命を蒙《かうむ》り、このセイゴンの港まで来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新《あらた》ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉《をさな》き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常《よのつね》の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のまゝなるは、独逸《ドイツ》にて物学びせし間に、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
「「余」は、物語の現在から五年前を振り返っている。なぜ、自分(「余」)がここに居るのかが説明されている。「平生の望足りて、洋行の官名を蒙り」とあるから、「余」は役人で欧州に派遣されていたことがわかる。常にそれを望んでいたこともね。外国に行きたいという思いは今でも多くの人が持っている望みだよね。それも、「官命」なら出世に繋がるしね。「余」はエリート官僚らしい。「セイゴン」は今のサイゴン。当時は、見るもの聞くもの、すべてが珍しく、それを紀行文にして書きまくったんだ。それは新聞にまで載った。当時の日本人は、海外の情報を知りたかったんだろうね。だから、その記事は人気があったらしい。でも、今になってみると、その文は、未熟な思想であり、身の程知らずの無責任な言いたい放題、ごく当たり前の自然物や風俗などまでも珍しげに書いたので、心ある人はどう思っただろうかと書いたことを後悔している。今回の旅、つまり帰国の旅では、日記を書こうとして買ったノートもまだ白紙のままで何も書いていない。それは、ドイツで学んでいる間に「ニル・アドミラリイ」という冷淡、虚無的な態度の性質を身に付けた為だろうかと言うと、そうではない、これには別に理由があると言う。要するに、この五年間で自分はすっかり変わってしまったと言いたいんだね。行きには意気揚々としていたのが、帰りには打ちひしがれたようにすっかり落ち込んでしまった。
ここで本当の理由をなかなか言わず、今の自分は昔の自分じゃないと繰り返し言っているのは、なぜかな?」
「もったいぶることで、読者にこの間に何があったのか知りたくするため。先が読みたくなる工夫をしているんだよね。」
少しずつ事情がわかってくる。それと共に新たな疑問も生まれてくる。こうして先を読ませようとしているんだ。文語文だけど、情緒に流れた文章ではない。すごく論理的に書かれている。
コメント
最初、希望に満ち溢れてすごくエネルギッシュだったのに、今はすっかりしょんぼりしてますね。
何があったんでしょう。
早く知りたいです。
五年前の主人公との違いを対照的に描いていますね。
小説の構成がよく考えられています。
当時、洋行する人など、ほんの一握りで、紀行文を書いていた頃の主人公は新聞記事を読む世間一般の人々と立ち位置は同じ。この小説の読者も概ね「知らない」側ですよね。ごく自然に読者を世間一般の人として引き込んでいますね。外国の新しい発見に無邪気なまでに高揚した日々。5年後の帰途、「知ってしまった」側の自分は長旅の停泊地で船から降りようともしない。書き連ねるに値する心を動かすに足る事もない。欧州で学び知識を得ることで立場が変わった、と思わせておいて「あらず、これには別に故あり」。新聞連載だったら明日が待ち遠しいですね。
作者は、読者の心理を見事に予想して書いていますね。一体何が書かれるのだろうと期待を持たせています。
それも、少しの不自然さも感じさせることなく。さすがです。