慟哭の声

 漸く四辺《あたり》の暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処《どこ》からか、暁角《ぎょうかく》が哀しげに響き始めた。
 最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等《かれら》は未《ま》だ虢略《かくりゃく》にいる。固より、己の運命に就いては知る筈《はず》がない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐《あわ》れんで、今後とも道塗《どうと》に飢凍《きとう》することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖《おんこう》、これに過ぎたるは莫《な》い。
言終って、叢中から慟哭《どうこく》の声が聞えた。

 美鈴の番だ。美鈴は李徴をどう思っているんだろう。美鈴の中にも李徴はいるのかな?
「また、幕間の段落が入っているね。純子、「暁角」って何だかわかる?」
「え~と、調べます。「夜明けを告げる角笛」ってありました。」
「「哀しげに」と言うのは、人々の気持ちを暗示しているね。みんな李徴の悲劇に胸を痛めているんだ。」
「「最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから」と言うけど、実際どうなんだろう。むしろ昼間の方が人間でいられるんじゃないのかな?この辺りの事情は、自分に都合がいいように言っている気がする。」
「ここでやっと妻子のことを袁傪にお願いする。このことについて、どう思う?」
「李徴にも妻子を思いやる優しさがあったんだね。」
「でも、なんで別れの場面になってから、このことを頼むの?散々自分のことについて喋った後でしょ。李徴にとっての妻子ってその程度の存在なんだね。」
「そもそもなんで結婚なんてしたんだろう?」
「結婚したのは、役人時代だよね。きっと世間体からしたんだよ。あるいは、出世に都合がよかったから。だから、妻子なんて大して愛していないんだよ。」
「李徴には、人間的な優しさが欠けているんだ。だから、詩にしても、人の心を今一つ捉えないんだよ。」
「まあ、そう考えるのがもっともだね。ただ、あたしは気になることがあるんだ。ほらここ、「言終って、叢中から慟哭の声が聞えた。」ってとこ。これはさすがに演技じゃないよね。李徴は声を張り上げて泣いている。前の場面で「己の毛皮の濡《ぬ》れたのは、夜露のためばかりではない。」とあったけど、あれとは明らかに違う。とすると、この慟哭こそ李徴の本当の思いの表れじゃないのかな?」
「つまり、李徴には人間的な優しさがあるってこと?」
「うん。李徴に人間性はある。少なくとも、人間性の欠如が、袁傪が感じた「第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て欠けるところがある」ことの理由ではない。」
「とすると、もっと早い段階で妻子のことを頼みたかったのかもしれないね。しかし、それが出来ない理由があったんだ。なぜ、この順番で話さなければならなかったの?」
 話が予想外の展開になってきた。どうもことはそう単純には済まないようだ。

コメント

  1. すいわ より:

    「むしろ昼間の方が人間でいられるんじゃないのかな?」、、虎でないと、人間だと不都合なんですね。「悲劇」を背負い切らねばならないから最後まで気を抜かない。袁傪ならきっと成し遂げてくれるだろうと。夫を父を誇れる「詩人」であったと思えるように、ここまで綿密にお膳立てしたと。だから「悲劇の詩人」になる事にそこまで執着したのでしょうか。そうだとしたら可哀想な大馬鹿者です。家族はたとえ虎になっていても生きていて欲しいはず。文字通り首に縄を付けてでも連れ帰って毎日20㎏肉買えるくらいどんなことしてでも稼いじゃいます、私なら。

    • 山川 信一 より:

      李徴が家族を思う気持ちに嘘はありません。しかし、一方自分も大事なのです。プライドを棄てることが出来ません。どっちつかずなのです。
      悲劇の詩人でいることは、このためにもなりますが、それ以上に世間にそう思ってほしかったのです。
      女性には理解しがたい人物かもしれませんね。

  2. らん より:

    だんだんクライマックスですね。
    夜明けが近づいてきています。
    夜明けは別れの寂しい場面ですね。

    でも、なんで散々自分のことばかり、都合のよいことばかり語ったあと、最後の最後に妻子を頼むと袁傪に頼んでるのかなあと疑問に思いました。
    話す順番が、こんなふうになった理由があったのですね。
    気になります。

    • 山川 信一 より:

      家族のことを最後に頼んだのは、自分が〈詩の鬼〉であるように見せるための演出です。
      その理由は、今日の場面からわかります。読んでみてください。

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