それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還《かえ》って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操《あやつ》れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書《けいしょ》の章句を誦《そら》んずることも出来る。その人間の心で、虎としての己《おのれ》の残虐《ざんぎゃく》な行《おこない》のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤《いきどお》ろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己《おれ》はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経《た》てば、己《おれ》の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋《うも》れて消えて了《しま》うだろう。ちょうど、古い宮殿の礎《いしずえ》が次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人《とも》と認めることなく、君を裂き喰《くろ》うて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他《ほか》のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?
あたしの番だ。李徴の言葉は、段々真に迫って来た。
「李徴の中に虎と人間が同居している。虎の中に人間の心が還ってくることがあると言う。その時は、以前のままの自分でいられるんだ。でも、人間の心で虎としての行いを振り返るのが辛いと言う。しかも、人間に還る時間は、次第に短くなりどんどん虎になっていく。今では、なぜ以前虎だったのかと思うようになってしまった。まるで、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。考えてみると、獣でも人間でももとは何か他のものだったのに、初めから今の形だと思っているんじゃないか。以上、ざっとまとめたけど、純子わかるよね。本当は、こんなまとめはいけないんだ。ある言葉は別の言葉で置き換えられないからね。置き換えることでわかったつもりになってはいけない。」
「大丈夫です。原文のままでわかります。」
「じゃあ、みんなにも聞くけど、李徴の言葉で何か気づいたことはない?気になることとか。」
「あたしは李徴に共感するな。虎になるほどは極端じゃないけど、あたしも昔のあたしじゃない。知らないうちにいつの間にか変わってしまった。いつだったか、小学生の頃に書いた日記が出て来たんだ。あれ読んだら、昔こんなことを考えていたのかって驚いた。あんな純粋な心はもう無いもの。あたしはもうあの頃のあたしじゃない。いつの間にか変わってしまった。」
「なるほど、そうだね。なのに、初めから今の自分なんだと思っているよね。李徴の気持ちがよくわかるなあ。」
「あたしは「己の運命をふりかえる」という言葉が気になるな。「運命」と言っているよね。確かに虎に変身することは、自分ではどうにもならないことだけど、「運命」で括っていいのかな?」
「確かに、どんなことでも都合の悪いことは「運命」だと思えば楽になるね。あたしも、たまにそう思うことがある。予めそうなることが決まっているんだから、どうしようもないんだって。自分の責任は問われないしね。「運命」は、ある意味で非常に便利な言葉だよね。」
「李徴は、それを使っている。と言うことは、どこかに自ら責任を取りたくないという思いがあるってことだね。自分は悪くないって言いたいんだ。」
「そう思うと、「一体、獣でも人間でも」という言い方も気になってくる。これも、自分だけの問題じゃない。「生きもののさだめ」なんだと言いたいからじゃない?」
李徴がなぜ袁傪と話がしたいのかを考えてみる。そこには目的があるはず。その目的とは、袁傪に、わかってもらうこと、自分の悲劇に同情してもらうことだろう。ならば、実に巧みに話を進めている。なぜなら、誰しも一度はこんな風に考えたことがあるからだ。そして、そのことに普通反省を加えることもないからだ。誰しも、こんな風に言う李徴を責められない。責める資格がない。もちろん、あたしにも。でも、責められるほど偉い人がどこにいるって言うの?李徴を認めざるを得なくなっていく。何と言う説得力だろう。
コメント
「経書の章句を誦んずることも出来る」なんてしれっと教養をひけらかしていますね。この人としての優秀さと獣の所行との落差が、一層悲劇の色を濃くしています。同情するでしょうね、袁傪。「一体、獣でも人間でも」という所、実は自分もそうなのではないか、と話している相手(読者も)を不安にさせる事で自分の側に気持ちを寄せるように仕向けているように思いました。
なるほど、教養をひけらかしていますね。何を例に出すかには、その人の内面が表れます。
自分の優秀さを示しつつ、一方で悲劇を強調するものにもなっていますね。しかも、聞き手の共感を呼ぶことも忘れません。
李徴は用意周到に話を組み立てています。
虎の中に人間もいる時もあるのですね。兎を食べたりした後の気持ちが人間の時、どんなに恐ろしくて辛くて哀しいことでしょう。
自分なら気が狂いそうです。
だんだん忘れていく、変わっていくことって切ないですね。
ずっと同じまま永遠ってことはありえないから。
私だって進化したり退化したりして今の自分です。
李徴は、聞き手の経験に訴え共感を呼びながら話を進めていきます。
らんさんのように感じるのも自然な反応です。
ただ、李徴の話は李徴の都合がさせています。そのことを忘れないでください。