ルロイ修道士は大きな手を差し出してきた。その手を見て思わず顔をしかめたのは、光が丘天使園の子どもたちの間でささやかれていた「天使の十戒」を頭に浮かべたせいである。中学三年の秋から高校を卒業するまでの三年半、わたしはルロイ修道士が園長を務める児童養護施設の厄介になっていたが、そこには幾つかの「べからず集」があった。子供の考え出したものであるから、別に大したべからず集ではなく、「朝のうち弁当を使うべからず(見つかると、次の日の弁当がもらえなくなるから)」「朝晩の食事は静かに食うべからず。(ルロイ先生は、園児がにぎやかに食事をしているのを見るのが好きだから)」「洗濯場の手伝いは断るべからず。(洗濯場主任のマイケル先生は気前がいいから、きっとバター付きパンをくれるぞ)」といった式の無邪気な代物で、その中に、「ルロイ先生とうっかり握手すべからず。(二、三日鉛筆が握れなくなっても知らないよ)」というのがあったのを思い出して、それで少しばかり身構えたのだ。この「天使の十戒」が、さらに私の記憶の底から、天使園に収容されたときの光景を引っ張り出した。
「ルロイ修道士は外人だから、大きな手をしているのね。この後に白人とも書いてあった。」
「「天使の十戒」かあ。どこの学校にも似たような戒めがあるよね。うちだったら何かな?「ケータイが授業中に鳴っても、絶対名乗り出るべからず。」かな(笑)?みんなが迷惑して、帰れなくなるけど、お互い様だもんね。」
「やれやれって感じね。「天使の十戒」は、要するに生活の知恵なのね。」
「「わたし」は、語り手だけど、作者とかさなる感じがするわね。勤め人ではないところから、そう感じさせるわ。「わたし」=作者と読んでほしいのね。」
「「わたし」は、中学三年からこの園にいたとあるから、比較的年齢が上になってから入園したんだ。高校卒業までいられるんだから、面倒見がいい園だね。」
「児童養護施設はキリスト教の慈善活動の一環ですよね。お金は信者から集めるのだから、キリスト教徒は、いっぱいいるんですね。」
「「朝晩の食事は静かに食うべからず。」ってあるけど、うちの小学校では逆だったよ。食事は黙って食べなければいけなかった。食べる時は食べることに集中しなければいけないって。そうすることで、食べ物に感謝するんだって。」
「うちの小学校もそうだった。行儀正しく食べることが大事だって教えられた。」
「うちの学校は、みんなでおしゃべりしながら食べているよね。今の方が楽しいなあ。ルロイ修道士は、食事は楽しく食べるべきだと考えていたんだね。」
「最近のニュースによると、黙って食べる学校が増えているんだって。学校は教育機関だから、行儀作法や感謝の気持ちを育てるのが役目だと考えているのかな?」
「どうなんだろうね?単におしゃべりはうるさいからじゃないの?理屈は後付けでさ。学校って、とにかく変な校則が多いからね。」
「でも、自由にすると、食事のグループに入れない子が出たりするよね。一緒にご飯食べるグループに入るは一大問題だから。トイレ飯っていうのもあった。いじめの原因を避けているのかも?何かと面倒くさいね。」
「それにしても、「天使の十戒」は食べ物が中心みたい。当時はよほどお腹がすいていたんですね。」
「その中に「ルロイ先生とうっかり握手すべからず。(二、三日鉛筆が握れなくなっても知らないよ)」というのがあったんだから、これは重要なことだったのかも?」
「と言うより、「天使の十戒」は、先生たちとの付き合い方だよ。それが重要だったことがわかる。園児たちは、先生と上手くやっていかなくては生きていられなかった。一番の関心は先生だったんだ。」
「それにしても、当時を思い出して「思わず顔をしかめ」るほどだったんだもの、相当のものだよね。」
「「さらに私の記憶の底から、天子園に収容されたときの光景を引っ張り出した」とあるのは、無理矢理って感じがする。当時のことは、あまり思い出したくなかったんだね。」
ルロイ修道士は、どんな顔をしていたんだろう。年齢もだけど、一切出てこない。何か意味があるのかな?余計なことを考えさせずに、何かに集中させようとしているのかも。
コメント
「収容された」という言葉が、仰るとおり、自分の意に反して養護施設に「入れられた」感を匂わせますね。前回、ルロイ修道士は穏やかな印象と書きましたが、「わたし」が養護施設にいた十代後半、大人に不信感を持つ反抗期の少年、ルロイ修道士は二十代の血気盛んな青年、ぶつかることもあったでしょうね。「うっかり握手すべからず」、大きく温かで肉厚の力強い掌が思い浮かびます。ぎゅーっと握られたら子供達の手、痛そうですね。
「沈黙の行」があるくらいのキリスト教下の施設で「賑やかな食卓」。戦後間もない食糧の乏しい頃なのでしょう、身寄りのない沢山の子供たちのいる施設で皆で分かち合う食事の時間が楽しいものであれば、たとえそれが貧しいものでも豊かな食卓になったでしょう。ルロイ園長の「温かな家」に「わたし」は嫌々収容された?どういう経緯で養護施設に「厄介」になったのでしょう?
ルロイ修道士は、カトリックの禁欲的な信仰生活をする人ではありますが、教義に縛られすぎることのない人のようですね。様々な事情を抱えてこの養護施設にやって来た子どもたちの気持ちを大切にしています。
「わたし」がどんな事情でここに収容されたかは、書かれていません。この小説には多くの省略があります。作者井上ひさしの経歴を元に書いていますから、それを調べればわかることもあります。しかし、この小説では問題にされていません。
取り敢えず、その意図通りに読んでみましょう。