かへり来る道とほくて、うせにし宮内卿もちよしが家の前来るに、日暮れぬ。やどりの方を見やれば、あまのいさり火多く見ゆるに、かのあるじの男よむ。
晴るる夜の星か河べの蛍かもわがすむかたのあまのたく火か
とよみて、家にかへり来ぬ。その夜、南の風吹きて、浪いと高し。つとめて、その家の女の子どもいでて、浮き海松の浪に寄せられたるひろひて、家の内にもて来ぬ。女方より、その海松を高杯にもりて、かしはをおほひていだしたる、かしはにかけり。
わたつみのかざしにさすといはふ藻も君がためにはをしまざりけり
ゐなかの人の歌にては、あまれりや、たらずや。
帰ってくる道が遠くて、亡くなった宮内卿もちよしの家の前に来ると、日が暮れた。宿舎の方を見やると、漁師の漁り火が沢山見えるので、あの主人役の男が詠んだ、
〈晴れる日の夜の星か、川辺の蛍かなあ。それとも、私が住む家がある芦屋の漁師が浜辺で炊く火なのか。〉
と詠んで、家に帰ってきた。その夜、南の風が吹いて、波がたいそう高かった。早朝、その家の女の子どもが海岸に出て、浮かんだ海草が波に打ち寄せられているのを拾って、家の中に持ってきた。女のところからその海草を脚の付いた盆(「高杯」)に盛って、柏の葉を覆って出してきた、その柏に歌が書いてある。
〈海の神(「わたつみ」)が髪飾りとして髪に挿すといって、人々があがめる(「いはふ」)藻も、海の神が皆様のためには惜しまないことだった。〉
田舎の人の歌としては、表現が十分なのか、足りないのか。
「宮内卿もちよし」と固有名詞を使っている。これで真実味を出している。男の歌は、「あまのいさり火」を「星」「蛍」「あまのたく火」と言って、題材豊かに詠んでいる。南の風が吹いて、波が高く、早朝、子どもが打ち上げられた海草を拾うなどと、京にいては味わうことができない経験が語られている。女が詠んだ歌も、語り手は出来不出来の評価をためらっているけれど、海草を海神からの贈り物とする発想が面白い。作者はそれを評価しているからこそ記載したのだ。
政治的成功を収めなくても、こんなに人間的に豊かな人生を送れると言いたいのだろう。恋に生きる者が手にした宝物の一つである。
コメント
瞬くいくつもの灯火が暗い海のキャンバスに散りばめられた様は、歌に詠まずにいられない美しさでしょう。
海神からの贈り物、と子孫繁栄や家門継承の象徴とされる柏の葉に詞書きして海藻を差し出す女。決して高価なものではないけれども、精一杯もてなそうとしている。潮の香りと共に届けられた心尽くしの品を温かな気持ちで受け取れるのは、やはり、人の心に添うて過ごしてきた男だから、なのでしょう。
そうですね。作者は、語り手に歌の出来を批判させながらも、恋愛により心を豊かに養ってきた男の生き方をよしとしているのでしょう。
政治の中枢にあり、権力争いを繰り返す生き方では、味わうことのできない経験がここにあります。