第七十五段 ~口説きあぐねる~

 昔、男、「伊勢の国に率(ゐ)ていきてあらむ」といひければ、女、
 大淀の浜に生ふてふみるからに心はなぎぬかたらはねども
といひて、ましてつれなかりければ、男、
 袖ぬれてあまの刈りほすわたつうみのみるをあふにてやまむとやする
女、
 岩間より生ふるみるめしつれなくはしほ干しほ満ちかひもありなむ
また男、
 なみだにぞぬれつつしぼる世の人のつらき心は袖のしづくか
世にあふことかたき女になむ。

 昔、男が「伊勢国に連れて行って、そこで一緒にくらそう。」と言ったので、女が
〈あなたが私を連れて行こうとなさる大淀の浜に生えているという海松ではありませんが、あなたを見ているからそれだけで心は風が凪ぐように満足してしまいました。契りを結ぶほど親しくありませんが(「かたらはねども」)、これで十分です。(「大淀の浜に生ふてふ」は「みる」を導く序詞。「みる」は〈海松〉と〈見る〉の掛詞。「大淀の浜」「海松」「なぎ」は縁語。)〉
と言って、以前にも増してつれなかったので、男が、
〈袖を濡らして漁師が刈り干す海の海松ではありませんが、あなたは見るだけで、それを逢うことにして二人の関係を終わりにしてしまおうとするのですか。(「袖ぬれてあまの刈りほすわたつうみの」は、「みる」を導く序詞。「みる」は〈海松〉と〈見る〉の掛詞。男は、女の歌の技巧に対抗して一層凝った序詞を使っている。「袖ぬれて」で涙を暗示し、自分がいかに本気かを示そうとしている。)〉
その歌を受け取った女は、
〈岩間から生える海松がそのままの状態であるなら(「つれなくは」)、潮が引いたり満ち足りして(「しほ干しほ満ち」)、きっと貝が付くこともあるでしょう(「ありなむ」)。それと同じように、今のように時々逢っていれば、そのうちきっと逢った甲斐もあることでしょう。(女は、このままでいたいと言って、男の誘いを断っているのである。)〉
また男は、
〈涙に濡れながら袖を絞っています。世間の人のつらい心は、この袖の雫だったのだなあ。〉
全く結婚することが難しい女であることよ。
 これも前段に続いて男は女を口説くとこに失敗した話である。歌の応酬が具体的に示されている。女の勝ちであった。男よりも歌の出来がいい。男の歌を言葉を巧みに使いながら、自分の意志を貫いている。見事である。恋には、しっかりした意志と知性と教養が必要なのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    歌の応酬というと痴話喧嘩の五十段を思い出すのですが、この七十五段は、畳み掛けるように男の方が女に思いをぶつけているのに対し、女は至って冷静に、男を思いやってか、実に美しい歌で断りの気持ちを伝えていますね。教養の高い人だと連想されます。女の一つ目の歌で「心はなぎぬ」、恋にしてはドキドキしていませんものね。断るにしても、相手を悪し様な扱いをしていないところが「いい女」なのでしょう。
    当時、一般には通い婚ですが、どこかへ連れて行って(引っ越し?)暮らすという事に特別な意味はあるのでしょうか?

    • 山川 信一 より:

      心が凪いでは、男に付いていこうとは思いませんね。女の思いは恋とは別にあるのでしょう。
      通い婚だけではなく、結婚の形態も様々だったのでしょう。一緒に住むようになるのは、自然の成り行きです。
      『伊勢物語』の中にも、一緒に住んでいたり、一方が出て行ったりする話がいくつも出て来ます。

  2. らん より:

    女の人の歌は恋っぽくなく、体良く御断りしてる歌ですね。
    断り方、上手です。
    男の歌は「また袖❓」と思いました。
    袖が濡れた歌は在り来たりだと思うので、もっと凝った歌で挑まないと、
    女の人はなびかないかも。
    先生、袖びちゃびちゃではなく、違う表現はありませんか。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。袖が涙で濡れるというのがお決まりの文句です。
      ただ、この時代は決まり切った題材をどう工夫して表現するかを競っていたようです。
      目新しい題材を用いることに関心がなかったのです。
      読み返してみると、歌の解釈が不十分でしたので、直しておきました。もう一度読んでみてください。
      男は、自分の場合と一般的な場合を対照しています。

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