第六十五段 ~その四 恋と倫理~

 かかれば、この女は蔵にこもりながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける、
 さりともと思ふらむこそ悲しけれあるにもあらぬ身をしらずして
と思ひをり。男は、女しあはねば、かくし歩きつつ、人の国に歩きて、かくうたう、
 いたづらにゆきては来ぬるものゆゑに見まくほしさにいざなはれつつ
 水の尾の御時なるべし。大御息所も染殿の后なり。五条の后とも。

 こうなので、この女は蔵に籠もりながら、確かにあの人(「それ」)であるよう(「あなる」は、動詞〈あり〉の連体形撥音便〈あん〉の〈ん〉の無表記+聴覚推定の助動詞の連体形〈なる〉)と聞くけれど、実際に逢うこともできずにあった(その時の思いを詠んだ)、
〈今はこうであっても(「さりとも」)いつかは逢えるだろうとあなたは思っているでしょう。そのことが悲しいけれど、(どうすることもできない)。私が生きていても生きているとは言えない(「あるにもあらぬ」)身であることを知らないで。(倒置法)〉
と思っていた。男は、女と逢わないので、このようにして歩き回っては、地方に歩いて戻り、こう歌った。
〈逢うこともできず空しく(「いたづらに」)行っては帰ってきたのに、あなたに逢いたさが抑えきれずに何度でも(「いざなはれつつ」)行ってしまう。〉
 清和天皇の御代であるに違いない。大御息所も染殿の后(藤原明子)である。あるいは、五条の后(藤原順子)とも言う。
 第四段~第六段の別語りとして読める。この女は、二条の后(藤原高子)である。当時、これに近い事件が実際にあったのだろう。そのため、様々に語り継がれたに違いない。作者は、それを用いて、恋の罪深さを説いている。確かに、恋は罪深い。絶世の美女を〈傾国〉と言うように国さえ傾けることがある。恋は、倫理で律しきれるものではない。恋の恐ろしさは肝に銘じておくべきだ。
 しかし、したがって、恋は、倫理とは相容れぬものであり、倫理の基準で計るべきものではない。恋と倫理とは、属するカテゴリーが違うのだ。それを、現代では、二つを結びつけ、殊更不倫と言うのはなぜだろう。英語ならlove affairであろう。これには、特に倫理が関係していない。普通じゃない出来事くらいの意味だ。illicit loveと目くじらを立てるのは、その人物を陥れようとするためではないか。あるいは、本来倫理に結びつけるべきものから目を背けるためではないか。他に不倫と言いたいことがいくらでもある。

コメント

  1. すいわ より:

    高く高く壁が築かれる程、思いは募るばかり、若い男はなすすべもなく逍遥する。女の方が少し年嵩なのか、世間の道理がわかっている分、恋の終わりが幸せな方向にはない事を悟っている。引き裂かれて初めて自分の本当の心を自覚した分、女が哀れです。
    自分の感情を他者に示す中で、人を恋るという形は、初動、一方的ではあっても相手に対して良い感情なはず。一対一の感情単位の間は当人同士で決着するものですが、それが「不倫」という括りで悪いものとされるのは社会性(名誉、権力、経済など)という他者の意思が関わって来るからでしょう。そうした意味では女が帝にすがって許しを請うのではなく、心に従う事で罰を受ける、というのは純粋さが際立ちます。社会性を持つのが人間という生き物ですから、至極当然な事ではありますが、心はそう簡単に割り切れるものではありませんね。本人たちが不倫であると自覚するのならまだしも、他者が指差して不倫となじるのは、正論という悪意のように思えます。

    • 山川 信一 より:

      とても深い考察です。一つの恋愛論になっています。すいわさんの論に賛同します。
      すいわさんのお陰で、文学を読むことのあり方の一つを、このブログの読者に示すことができます。ありがとうございます。
      すいわさんは、『伊勢物語』を自分のものとして読んでいます。素晴らしいです。
      それにしても、ここまで考えを深めることができるのですから、やはり、『伊勢物語』は恋愛の教科書ですね。

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