昔、男ありけり。人のむすめのかしづく、いかでこの男にものいはむと思ひけり。うちいでむことかたくやありけむ、もの病みになりて、死ぬべき時に、「かくこそ思ひしか」といひけるを、親、聞きつけて、泣く泣くつげたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。時は六月のつごもり、いと暑きころほひに、宵は遊びをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍たかく飛びあがる。この男、見ふせりて、
ゆくほたる雲の上までいぬべくは秋風吹くと雁につげこせ
暮れがたき夏のひぐらしながむればそのこととなくものぞ悲しき
人の娘で大切に育てられた娘(「人のむすめのかしづく」)が、どうにかしてこの男とねんごろになりたい(「ものいはむ」〈ものいふ〉は、〈情を通わせる。ねんごろになる。〉。)と思った。はっきりと口に出す(「うちいでむ」)ことが難しかったのだろうか、病気になって、死にそうになった(「死ぬべき」)時に、「このように思っていたのだが・・・」と言ったのを、親が聞きつけて、泣く泣く男に告げたので、男は心乱れてやって来たけれど(「まどひ来たりけれど」)、女は死んでしまったので、何も手につかず(「つれづれと」)こもっていた。時は、六月の月末で、たいそう暑い頃で、宵は音楽を演奏し女の霊を慰め(「遊びをりて」)、夜が更けて、やや涼しい風が吹いてきた。蛍が空高く飛び上がる。この男がそれを伏せって見て、女を思い歌を詠む。
〈高くゆく蛍よ、お前が雲の上まで行ってしまうことができるなら、地上では秋風が吹いていると雁に告げて欲しい。〉(「こせ」は、他に望む意の助動詞〈こす〉の命令形。雁は亡くなった人の魂がその姿を借りるという。)
〈なかなか暮れない夏の一日を日が暮れるまでもの思いにふけていると(「ながむれば」)、そのことともなくものがなしくなることだ。〉
うぶな娘が男に片思いの恋をした。そして、恋心を打ち明けることができず、病気になるまで思い詰め、死んでしまう。これも恋だ。
男は、自分のせいで亡くなった女性を哀れに思う。思いを遂げてあげられなかったことが無念でならない。だから、その人のことを思って、ひたすら悲しみ続ける。逢うことばかりが恋ではない。これも恋なのだ。
コメント
いくら恋する心に寛容でも、流石にいまわの際の娘の願いを叶えてくれという親の申し出には驚いた事でしょう。それでも、恋の喜びを知らずに逝った娘に対して男は優しい。
「遊びをりて」は音楽を演奏する事なのですか?箏?琵琶?笛?
今世に縁の結ばれることのなかった娘には糸ものの楽器はそぐわないかもしれない、篠笛(偲ぶ)が似つかわしいでしょうか。龍笛なら、男が哀れな娘を愛しむ思いを空の彼方まで届けてくれるかもしれません。恋い焦がれ、その身を儚い蛍火のようにきらめかせ逝ってしまった娘。息を吹き込み鳴らした笛の音を乗せて舞い上がる蛍。言葉を交わすことすらなかった相手ではあるけれど、なかなか暮れ行かない夏の日の如く、こんなにも忘れ難い。あぁ、君は確かに、私と恋したんだね、だから私は悲しいのだ、と。
昨日はちょうど水無月の晦でしたね。昔とは季節はずれますが、偶然の一致でした。
この時代、遊ぶと言えば、音楽を演奏することです。ここでは、演奏は気を紛らわすと言うよりも、死者の霊に手向けるためでしょう。いろいろ演奏したのかもしれませんが、笛が似合いますね。
この段の話は、第四十段に似ています。ただ男女が入れ替わっています。いずれにしても、恋は死と隣り合わせにあるということでしょう。
一つ目の歌で雲の上と歌っていて、娘の姿の見えなさ(会わずに終わった)を感じますし、二つ目の歌でひぐらしは一日を過ごすことを言っているのでしょうけれど、字面をみて蝉のひぐらしが連想されて、天の声なき蛍と地にあって鳴く(泣く)蝉、男と女、生と死と上手く対比していると思いました。
ヒグラシという蝉は万葉集にも出て来ます。ですから、すいわさんの鑑賞は正当性があります。
天の蛍と地のヒグラシ、素晴らしい鑑賞です。