富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。
時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪のふるらむ
その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十(はたち)ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。
なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国とのなかにいと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。
駿河の国には、有名な富士の山がある。その山に目をやれば、五月の月末だというのに、雪がたいそう白く降っている。〈ふる〉に対して、「ふれり」は〈降っている〉の意。ここがいかに異境の地であるかを表している。
「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪のふるらむ」
季節を知らない山は富士の嶺である。もう夏なのに、今をいつだと思って雪が降っているのだろう。「らむ」は現在推量の助動詞で、ここでは〈雪が降っていること〉の原因理由を推量している。
「その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。」
富士の山のなりを説明している。「ここにたとえば」の「ここ」は京。語り手は京に入る読者を意識している。だから、「比叡の山」や「塩尻」といった京にいる読者が見知っているものにたとえているのである。「比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほど」の「む」は未確定の助動詞。ここでは、仮定を表す。その高さは比叡山を二十ほど重ね上げたら、そのくらいだと言うのである。
「なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国とのなかにいと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。」
さらに東に進んだことを言う。「武蔵の国」「下つ総の国」「すみだ河」という固有名詞を使うことでリアリティーを持たせる。ちなみに、「下つ総」の「つ」は現代語で言えば、〈の〉の意。この「つ」は、〈まつげ〉(目の毛)、〈上つ方〉(上の人)、〈わたつみ〉(海の神)の「つ」と同じ言葉。
コメント
聳え立つ富士、季節を戻してしまったように雪まで降って、畏れにも似た心持ちだったのではないでしょうか。旅立ってから何日も経過し、距離も遥か遠く離れたというのに、思いは雪のように降り積もるばかり、、、
夏でも降る雪と京から遠く離れても消えない恋心が重なったのかもしれませんね。