昔の話なのである。「昔」は、心理的過去を表す。「いにしへ」は、事実としての過去。要するに、現在とかけ離れていると思えれば、「昔」である。違いが感じられれば、数時間前でも「昔」である。たとえば、百人一首にもある次の歌はそのことをよく示している。
逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり 権中納言敦忠(43番) 『拾遺集』恋二・710
後朝の歌である。独白ではない。相手の女性に贈ったのである。だから、どんな気持ちを伝えたかったのかを考えなければならない。「昔」がキーワードである。あなたに逢う前、それは数時間前に過ぎない。それが私には「昔」に思えると言うのである。確かに、あなたに逢うまでもあなたに逢えないつらさに苦しんだ。しかし、そのつらさも、こうしてあなたと結ばれた後、あなたと離れている苦しみに比べれば物の数ではない。あなたに逢う数時間前が遠い過去のように思われる。それぐらい実際のあなたは素晴らしい。どうかまた逢ってほしいと言うのだ。「昔」を効果的に使っている。
『伊勢物語』は、すべて「昔」から始まる。作者は、現代との違いを強調しているのだ。そこに、過去の、現代にはない良さを示そうとする意図がある。
主人公を「男」としている。特定の誰それと限定しないことで、普遍性を持たせている。モデルは誰かなどと詮索するのは、作者の表現意図に反する。見当外れである。
「けり」は過去の助動詞。つまり、それが過去の事実であることを示す。ただし、経験して知っているわけではない。経験はしていないけれど、確かに事実であると認めている場合に使う。経験して知っていることを示すのは、「き」である。現在なら「た」で済ますのを分けている。昔の方が繊細だった。
コメント
ご教授有難うございます。
そうなのです、「き」「けり」が過去の助動詞ということはわかるのだけれど、どうちがうのかを具体的に知りたかったのです、中学生だった私は。マークシートを正確に塗りつぶすための知識を詰め込むなら参考書一冊あれば充分。
時間の制約もあるとは思いますが、センセイ君主の支配の下では疑問を持つ事は許されない、というのが私の中学3年間の「国語」の授業でした。
知識の森はイバラで囲われてはいなかったのですね。諦めて手離してしまった「国語」の時間が悔やまれます。国語、学びたかったのだなぁ、と。
すいわさん、コメントありがとう。納得できて何よりです。
これからもこんな国語の授業をするので、読んでくださいね。
何でもそうですけど、国語の勉強もいつからでも始められます。
質問があればしてくださいね。