古典

友に対して否とはえ対へぬが常なり

大洋に舵《かぢ》を失ひしふな人が、遙《はるか》なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼《はうしん》なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽...
古典

人材を知りてのこひにあらず

食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路は概《おほむ》ね平滑なりしに、轗軻《かんか》数奇《さくき》なるは我身の上なりければなり。 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡々驚きしが、なか/\に余を譴《せ》めんとはせず、却...
古典

余は少し踟蹰したり

余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階《はしご》を登り、中央の柱に「プリユツシユ」を被へる「ゾフア」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばこゝにて脱ぎ、廊...