題しらす よみ人しらす
わかこころなくさめかねつさらしなやをはすてやまにてるつきをみて (878)
我が心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
「題知らず 詠み人知らず
私の心を晴らしかねてしまった。更級の姨捨山に照る月を見て。」
「(兼ね)つ」は、助動詞「つ」の終止形で意志的完了を表す。「(更級)や」は、間投助詞で詠嘆を表す。
東国への旅は侘しい。特に夜は殊更だ。ところが、私は自分で旅の侘しさを晴らせなくしてしまった。なぜかと言えば、心を慰めようとして姨捨山に照る月を見てしまったからだ。ところが、これが逆効果だった。見なければよかった。その月の光がいよいよ私の心を侘しくさせてしまった。
作者は、更級の姨捨山に照る月によって、東国での旅の侘しさを伝えている。
この歌は、前の歌と〈月を持て余す心情〉繋がりである。月は様々な思いを抱かせる。だから、いつでもその光を堪能できる訳ではない。月が堪能できるのは心に余裕があるからなのだ。その余裕の無い旅の途上で見る月は侘しく映る場合もある。しかも、ここは、更級の姨捨山である。この地名は悲しい伝説を連想させる。この歌は、地名によって、読み手にその侘しさを納得させている。「慰め兼ねつ」の「つ」は、自分の意志を表す。自然にそうなったのではない。自分の意志でそうしてしまったのである。「つ」により上の句で読者に「なぜか」という疑問を強くいだかせる。そして、その理由が倒置により下の句で「姨捨山の月に照る」を見たからだと明らかにされる。編集者は、こうした表現への配慮を評価したのだろう。
コメント
姥捨の慣習は随分と昔からあったのですね。旅の友のように付いてくる月、孤独を紛らわそうと仰ぎ見た月がむしろその土地の言われと相まって心寂しさが尚更に募ってしまった。その時の自分の心を鏡のように映し出す月。恵まれた環境にあるからこそ、月を愛でる事が出来ていたのだと、自己を客観視するきっかけとなったのですね。
この歌は、ある意味で旅のレポートなのでしょう。当時の人は気楽に地方まで旅に出たとは思えませんから。読み手は、この歌で甲斐の国に心を馳せたのでしょう。