おもひに侍りけるとしの秋、山てらへまかりけるみちにてよめる つらゆき
あさつゆのおくてのやまたかりそめにうきよのなかをおもひぬるかな (842)
朝露のおくての山田かりそめに憂き世中を思ひぬるかな
「喪に服しておりました年の秋、山寺へ行った道で詠んだ 貫之
朝露が置く晩稲の山田を刈り始める。なおざりに辛いこの世を思っていたことだなあ。」
「朝露のおくての山田」は、「かり(刈り)」を導く序詞。「おくて」は、「置く」と「晩稲(おくて)」の掛詞。「かりそめ」は、「刈り初め」と「仮初め」の掛詞。「(思ひ)ぬるかな」の「ぬる」は、助動詞「ぬ」の連体形で完了を表す。「かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
山寺に向かう道からは朝露が置く晩稲の山田を刈り始めているのが見える。その季節感が私を一層思慮深くにするからだろうか、私は、死というままならぬ辛いことを身近に思わないでうかうかとその場限りのことばかり思ってきた。自分の愚かさを思い知ることだなあ。私も人生の冬に移ろうとするのに・・・。
他者の喪に服し、我が身を省みている。
喪に臥す者の心情である。喪中の年は、外出もせいぜい山寺詣でくらい制限されている。秋の山寺詣でとなれば、我が身をこんな風に省みることもあるだろう。この歌は、秋の季節感と侘しい山寺詣でを生かし、読み手に共感を持たせている。掛詞が「かりそめ」の他に「おくて」にも使われている。その理由は、三十一文字に少しでも多くの情報を盛り込むためである。この歌もこの掛詞の働きを十分に生かしている。しかも、この歌は「かりそめ」を掛詞にして、実景から内省へと転じる。その構成に工夫がある。編集者は、この歌のこうした周到な表現効果を評価したのだろう。
コメント
秋も深まり奥手の稲も刈り始める。それを見ると辛い(憂き)浮世(今)の自分に思いを馳せる事だなぁ、、
これ単体なら自然の流れに自分の人生を重ねた歌ですが、どうしても友則の事が頭を過ぎります。死者の安寧を祈る為の山寺詣、山道を歩いていると眼下に奥手の稲を刈る姿を見る。そうか、奥手であってもいつかは刈られる。いつまでも悲しみに暮れてうかうかしていると、自分の命の尽きる日も来るではないか。もしこんな体たらくな事で和歌集の完成を見ないまま自分も彼岸へ渡ったら、友則に顔向け出来ない。そこでこの微に入り細に入り手の込んだ歌を詠む。友則への最上のオマージュ。頑張れ、貫之!と言う気持ちになりました。通しで読んでいなければこんな風には思えなかっただろうと思います。
優れた歌は、特殊性と普遍性のどちらも兼ね備えています。この歌もそうでしょう。この歌も、貫之にとっての特殊な事情があったに違いありません。それは、すいわさんがおっしゃるように、友則の死と『古今和歌集』編纂への思いだったのかも知れません。『古今和歌集』を読み進めてくると、編集者がそう仕掛けているにように思えますね。そして、その上で誰にでも当てはまる歌にもなっています。さすがですね。