《落花と失恋》

題しらす そせい法し

おもふともかれなむひとをいかかせむあかすちりぬるはなとこそみめ (799)

思ふとも離れなむ人をいかがせむ飽かず散りぬる花とこそ見め

「題知らず 素性法師
思っても離れてしまうだろう人をどうしよう。満足できず散ってしまった花と見るだろうが・・・。」

「(思ふ)とも」は、接続助詞で逆接を表す。「(離れ)なむ」の「な」は、助動詞「ぬ」の未然形で完了を表す。「(せ)む」は、助動詞「む」の連体形で推量を表す。「(飽か)ず」は、助動詞「ず」の連用形で打消を表す。「(散り)ぬる」は、助動詞「ぬ」の連体形で完了を表す。「(花と)こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(見)め」は、助動詞「む」の已然形で推量を表す。
私が思っていても私から遠退いてしまうような人をどうしよう、どうすることもできない。満足することなく散っていく桜の花だと思って見るだろう。しかし、それで気持ちが収まるとは到底思えない。なぜなら、桜の花は散っても次の年には再び見ることができるけれど、一度離れていった恋人には二度と逢えないだろうから。
前の歌とは「散る花」繋がりである。どちらの歌も未確定の助動詞「む」が使いつつも、別れる蓋然性の高いことを表している。ただ、「花」は、前の歌では鶯との関わりで梅であり、この歌では桜だろう。この歌では、失恋を桜の花が散るようだとは割り切れない、諦めきれないと言う。つまり、落花のたとえが類似ではなく相違を言うために使われている。編集者は、このたとえの新たな使い方と「こそ・・・見め」による余情の持たせ方を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    どんなに私が思ったところで心離れてしまった人を、どうすることができようか。
    桜の花だったら見飽きるまで見尽くせなかったと、そういう花なのだ、と思えるところだろうけれど、貴女という花もそう思うよりほかないのだろうか。そう簡単に諦めがつかない。
    「飽かず散りぬる花とこそ見め」をどう取るのか難しいです。
    前の歌は梅の花を「散らし」ていて、散る原因を詠み手本人が作っていたけれど、この歌は桜の「散る」のをなす術もなく眺めていて、詠み手の身動きできないところが正反対だと思いました。女は泣いて縋り、男は立ち尽くすのですね。

    • 山川 信一 より:

      「女は泣いて縋り、男は立ち尽くすのですね。」なるほど、そうですね。男は女のように気持ちのままに行動できません。「男はつらいよ」なのですね。

  2. まりりん より:

    花とは散るもの。散るからこそ、盛りに最も美しく咲く。同様に、恋とは必ず終わりが来る。炎のように燃え上がって、いずれ心が離れていく。だからこそ尊い。
    と、思うのですが…そう理屈通りにはいかないですね。
    落花の例えの相違に気付くには、今一歩深く理解しないと、スルーしてしまいそうです。

    • 山川 信一 より:

      この解釈は「こそ見め」の係り結びが逆接を表していることから来ています。古文と言っても日本語ですから日本語の語感で読まねばなりません。そこが外国語との違いです。しかし、現代とは違う文法もあります。それも考慮する必要があります。

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