《不安の解消》

返し なりひらの朝臣

かきくらすこころのやみにまよひにきゆめうつつとはよひとさためよ (646)

掻き暗す心の闇に迷ひにき夢現とは世人定めよ

「返し 業平の朝臣
私を暗くする心の闇に迷ってしまった。夢が現かとは、世人が決めなさい。」

「(迷ひ)にき」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「き」は、過去の助動詞「き」の終止形。
あなたにお逢いできた喜びと直ぐにお別れせねばならなかった悲しみとで泣きはらし、私の心は闇にように真っ暗になりました。そして、その心の闇の中で途方に暮れてしまいました。私もあなたと同様に分別を失って判断しかねています。けれど、この逢瀬が夢なのか現実なのかは、どうでもいいのです。確かなのは、夢であろうと現実であろうと二人が逢って結ばれたことであって、それはそれは素晴らしいことです。その評価は勝手に世間がすればいい。私たちは、それぞれの思いに素直であればいいのです。
作者は、即座にこの歌を詠み、女の歌を届けた使者に渡したのだろう。女の方から先に後朝の歌が歌が贈られてきたという異常事態に女がいかに心乱れているかがわかる。一方、作者にも禁忌を犯してしまったことへのいささかの後悔があったかもしれない。しかし、ここでひるむ訳にはいかない。それでは、この恋が台無しになり、女が不幸になってしまう。そこでこのように詠んだのである。これは、作者の女への思いやりの歌である。
この歌は、女の気持ちに共感しつつ、自分たちの取るべき態度を示している。「世人定めよ」にその強い意志が表れている。世間は世間、自分たちは自分たちなのだと言いたいのだ。編集者は、「世人定めよ」が恋に直向きな態度をよく表している点を評価したのだろう。なお、「世人定めよ」は、『伊勢物語』では、「今宵定めよ」(今夜逢って確かめましょう)になっている。物語がまだ続くからであろう。「今宵定めよ」もこの恋を続ける意志を表していることには変わらない。

コメント

  1. すいわ より:

    (本当のことは私たち二人しか知らないのだから)言いたいやつには言わせておけばいい、貴女さえ心を決めて下されば。大切なのはあなたの心。昨夜の逢瀬を貴女が少しでも無かったことと思われた事で私の胸の内は暗闇の中を彷徨うように掻き乱れてしまった、、女からの歌に慌てて返歌、きっと書く文字も乱れていた事でしょう。男にとってもこれまでに経験したことのないケース、大人の余裕を見せたいところだけれど、この歌を詠むことで自分自身の中にある迷い(理性)にも気付いたのではないでしょうか。その上での「よひとさためよ」、覚悟を示すことで女を思いやっているのですね。

    • 山川 信一 より:

      さすがの業平も女からの後朝の歌には驚いたことでしょう。女の不安を思い知ります。その上での「世人定めよ」なのですね。これは『伊勢物語』の「今宵定めよ」よりずっと重い言葉です。業平の「覚悟」が表れていますね。

  2. まりりん より:

    恋は盲目。貴女に夢中なあまりに周りが見えなくなってしまいました。それでも、人から何と後ろ指されようとも私は貴女への思いを貫らぬきます。

    こんな風に返されたら女性としては飛び上がらんばかりに嬉しいですが、、プレイボーイの業平のこと、本心でしょうか…? ウブな少女をたぶらかしている?

    • 山川 信一 より:

      業平は、どんな恋でも真剣だったと思います。「ウブな少女をたぶらか」そうなどとは思っていないでしょう。精一杯の思いやりから生まれた歌に思われます。

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