《情景と詞》

題しらす 在原元方

あふことのなきさにしよるなみなれはうらみてのみそたちかへりける (626)

逢ふことの渚にし寄る波なればうらみてのみぞ立ちかへりける

「題知らず 在原元方
逢うことが無い渚に寄る波なので、浦見て(恨みて)ばかり帰ることだなあ。」

「渚にし」の「渚」には、「無き」が掛かっている。「し」は、副助詞で強意を表す。「波なれば」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「うらみて」は、「浦見て」と「恨みて」の掛詞。「のみぞ」の「のみ」は、副助詞で限定を表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(帰り)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
私はあなたに逢うことが無い渚に寄る波なので、波が浦を見て返るように、逢えないことを恨んでばかりで帰ることだなあ。こんな私をわかっていただけますか。
作者は、何度逢いに行っても逢うことができずに帰って来る今の自分を何にたとえたら、わかってもらえるかを考えた。そして、浦に寄せては返るだけで岸に上がることが無い波に似ていることに気づく。さらに「うらみて」が「浦見て」と「恨みて」の両方を表せることを発見する。
この歌は、渚に寄る波の情景によって視覚に訴え「うらみて」の掛詞によって知性に訴えている。編集者は、その組み合わせが効果的であると評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    渚に波が打ち寄せては消えて、そしてまた別の波がきて消えて。。繰り返し寄る波は、思いが相手に受け止めてもらえない様と、それでも諦めずに相手を想う様を現しているように思えます。

    • 山川 信一 より:

      寄せては返す波は、受け入れてもらえないのに諦めずに思うこ心のたとえとしてふさわしいですね。
      一方、そのまま花粉症の症状にもたとえられそうです。そのしつこさに・・・。花粉症の辛さはなった者しかわかりません。お察しします。幸い私は今のところ無事です。でも、いつ出ることか。

  2. すいわ より:

    「うらみてのみそ」岸(あなた)は目の前だというのに、ただ立ち尽くし帰るしかない。一体、何度ここへ来ては帰っているのだろう。なんと口惜しい。水際で砕ける波、それはまさに私そのもの。嘆きの声を残しては帰って行くのです、、
    真っ直ぐに、逢えない事を嘆き悲しんでいると伝えていますね。この歌も伊勢物語六十五段を彷彿とします。

    • 山川 信一 より:

      波のたとえは、砕ける音まで利用しているのですね。嘆きの声が聞こえてきます。
      『伊勢物語』は、ここから作られたのでしょうか?「いたづらにゆきては来ぬるものゆゑに見まくほしさにいざなはれつつ」が重なります。

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