題しらす たたみね)
たきつせにねさしととめぬうきくさのうきたるこひもわれはするかな (592)
滾つ瀬に根ざし留めぬ浮き草のうきたる恋も我はするかな
「題知らず 忠岑
「水が逆巻く瀬に根ざし留まらない浮草のようにふらふらしている恋もすることだなあ。」
「滾つ瀬に根ざし留めぬ浮き草の」は「うきたる」を導く序詞。「(留め)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
植物は、水が逆巻く早瀬に根を付け生えることができません。そこにあるのは、不安定な状態で漂う浮草だけです。何と、その浮草は、まさに今の私そのものです。あなたに恋をしたために、あなたの目まぐるしく変わる心に翻弄されています。あなたの確かな心を得ることができず、心が不安定でつらい思いをしているのです。
作者は、恋する自分を象徴する物として、早瀬の浮草に目を止めた。これによって今の自分をわかってもらおうとしている。「うき」には、「憂く(つらい)」の意味を掛けている。不安定な恋は辛いということだ。
前の歌とは川繋がりである。滾つ瀬の浮草に目を止めたところに独自性がある。「恋もするかな」は、恋の歌のきまり文句であるが、この歌は「我は」を加えている。そのことで、相手はそうではないという含みを持たせている。小技の効いた歌である。編集者はこうした点を評価したのだろう。
コメント
「我は」と自分を強調していますね。暗に相手と比較することで、作者の不安定で落ち着かない心情が余計に伝わってくる気がします。
「我は」と言うと、相手は違う含みが出ます。ですから、ややもすると皮肉や当てつけになりかねません。「は」の使い方には注意が要りますね。その匙加減が難しい。
翻弄される恋。相手の些細な仕草、行動にも心が揺れてしまう。相手は私の事など微塵も意識していないだろうに。
「恋もするかな」の“も”も気になって、数ある恋の中で今の状態は初めて体験する辛さなのかもしれないとも思えました。自分優位の恋をして来てその事に気付かず、翻弄されて初めて自分の思いの届かなさに浮き草のような心許なさを覚えたのかもしれません。
確かに「も」は、類似のことがあることを意味する助詞です。しかし、その一方で「こんなにも」というような強調の働きも表します。「恋もするかな」は、こんな恋までもの意でしょう。だから、同時にその他の恋も暗示することになりますね。それが自己発見にもつながることもありそうです。