題しらす 紀つらゆき
よとともになかれてそゆくなみたかはふゆもこほらぬみなわなりけり (573)
世と共に流れてぞ行く涙河冬も凍らぬ水泡なりけり
「題知らず 紀貫之
世と共に流れて行く。涙河は冬も凍らない水疱であったなあ。」
「ぞ行く」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「行く」は、四段活用の動詞「行く」の連体形。ここで切れる。「なりけり」の「なり」は、断定の助動詞「なり」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
我が人生と共に涙の河が流れて行くことだ。涙の河は、いつでもいつまでも絶えることがない。それは、冬でも凍ることがない水の泡だったのだなあ。
この歌は独白であろう。つまり、作者は、次のように言っているのである。「生きることと恋をすることは切り離せない。人は恋をしながら生きていく。生きていれば恋をする。そして、恋には涙が付きものである。恋は時期を選ばないから、涙はいつでも流れ続けることになる。だから、たとえ季節が冬であっても、水の泡のように凍ることがない。」この歌は、人生と恋についての発見である。それを「けり」によって表している。「けり」は、発見による詠嘆を表す助動詞である。
人生と恋についての発見を冬でも凍らない水の泡にたとえて述べている。編集者は、この発見と水泡との結びつきの独自性を評価したのだろう。
コメント
生きている限り人は恋をし、たとえその恋が実らず打ちひしがれることがあっても、儚い水の泡が冬の寒さにも凍る事なく流れていくように人生を生きていく。人生と恋。人は人と関らずして生きて行くことは出来ない。それを繋ぐ歌。歌詠みならではの冷静でありながら感慨深い歌ですね。沢山の恋をして流した涙の川を漂いながらまた新たな恋をするのですね。その流れは止まることなく続いて。
この歌は、貫之の人生論、恋愛論でもあるのですね。生きることは恋をすること。恋によって、人は最も人らしくいられる。そんな気もします。私も、今更老いらくの恋はできませんが、過去の自分を振り返ってみます。
この歌を古今和歌集の恋歌と知らずに、いきなりこれだけ読んだら、私はこれが恋の歌とは解らなかったと思います。「涙」ときたら「恋」と連想すべきなのですよね。
この歌もどう読むかは、読み手に任されています。『古今和歌集』の恋二に置かれているから、恋の歌として読んでいるのです。いきなり読めばそう思えなくて当然です。「涙」が「恋」に結びつく蓋然性は高にしても、必ずそうであるとは限りません。一般的に生きていくことはつらい。だから、『古今和歌集』の文脈から離れれば、「人生はつらい。生きるとは、そのつらさに涙を流すことだ。」こう読んでも、差し支え有りません。