題しらす 読人しらす
こむよにもはやなりななむめのまへにつれなきひとをむかしとおもはむ (520)
来む世にも早成りななむ目の前につれなき人を昔と思はむ
「来世にも早くなってしまってほしい。目の前にいる冷たい人を昔と思うだろう。」
「(来)む」は、未確定の助動詞「む」の連体形。「ななむ」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「なむ」は、願望の終助詞。ここで切れる。「(思は)む」の「む」は、推量の助動詞「む」の終止形。
こんなにつらいなら、来世にでも早くなってしまったらいい。来世になったら、目の前にいる無情なあなたを昔のことだを思えるだろうから。ただし、来世になると言うことは、死ぬということです。つまり、私は死を望んでいるのです。あなたは私をこんな思いにさせています。そのことがおわかりですか。そんなにつれなくしないで私を受け入れてください。
この歌は「目の前に」とあるから、恋人に実際に逢うことができたのだろう。ところが、恋人が思うように心を開いてくれないのだ。だから、目の前にいるのに遠い存在のままなので、恋人を「人」と表現している。しかし、これでは逢った甲斐がない。そこで、作者は、恋人にこのようにように言って迫ったのである。
恋は、恋人が心を開くことによって初めて満足を与える。そうでなくては、たとえ共寝をしたところで虚しいだけだ。この歌は、恋人が心を開いてくれないつらさを「来世」を願うということで表している。編集者は、その発想の独自性を評価したのだろう。
コメント
源氏物語の葵上を思い浮かべてしまいました。
本人の意に沿わぬまま立場上セッティングされて仕方なく会うにはあったけれど気がないのでつれない態度を女がとったのか。男は男で会ってみたものの「これはないな」と思ったものか。今世でなく来世と言っているあたり、男も会ってみて良い印象を持たなかったようにも思えます。来世、と言ったのはせめてもの女に対する思いやり?
この歌を目の前で詠まれる状況、いろいろ想像してしまいます。
もしかすると、紫支部はこの歌にヒントを得たのかも知れません。今のすいわさんの気持ちは、紫式部に通じていますね。
恋人が目の前にいるのに、漸く逢うことができたのに心を開いてくれない。そのことに多少いらいらしている、拗ねているように思えます。でも、女性の方も全く気がないのであれば逢ったりしないでしょうから、わざと直ぐに受け入れずにじらしているのでしょうか。あるいは、さらに情熱的な歌を贈られるのをまっているのでしょうか。
そうですね。様々なケースが考えられますね。現代でも、マッチングアプリで気に入って逢ってみたものの、この人とは合わないと思うことはありますよね。人のやることはそうは変わりません。