二条の后春宮のみやすん所と申しける時に、めとにけつり花させりけるをよませたまひける 文屋やすひて
はなのきにあらさらめともさきにけりふりにしこのみなるときもかな (445)
花の木にあらざらめども咲きにけりふりにしこのみなる時もがな
「二条の后が春宮の御息所と申した時に、めどに削り花を挿してあったのを御詠ませになった 文屋康秀
花の木でないけれども花が咲いてしまったなあ。古くなってしまった木の実がなる時があったらなあ。」
「(あら)ざらめども」の「ざら」は、打消の助動詞「ず」の未然形。「め」は、推量の助動詞「む」の已然形。「ども」は、接続助詞で逆接を表す。「(咲き)にけり」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。ここで切れる。「(ふり)にし」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「このみ」は、「木の実」と「この身」が掛かっている。「(時)もがな」は、願望の終助詞。
このめどは花が咲く木ではないだろう。けれども、花が咲いてしまったなあ。ついでに、時が経ち古くなってしまった木の実がなる時があったらなあ。それにあやかって、すっかり世に忘れられてしまったこの身が出世する時がございましたらなあ。
「めど」は、メドハギとも言われているけれど、よくわからない。メドハギなら花が咲くからである。「けづりばな」は、木を削って花の形に作ったもの。これを「めど」に挿したのである。二条の后がそれを題材に歌を御詠ませになった。后には、何か意図があったのだろうか。特に物名である必要は無かったのかも知れない。それでも、作者はこの名を詠み込み、さらに自分の出世への願望を込めた歌を詠んだ。己の存在感を示したかったのだろう。さて、思いは后に伝わったであろうか。
コメント
作者は、自分の立場に不満があったのでしょうか。すっかり古くなって実はつかないと思われていた木に、ある時実がついて皆が驚いた。そのように自分も出世して周りを見返したいと思っている。一方で后は、花が咲くはずがない木に、削り花によって花が咲いた、だから貴方も希望を捨ててはいけない、と気付かせたかったのでしょうか。
励めども我が成績は良くならず教科書まくらに夢の中へと
実話です。
「ある時実がつい」た訳ではありません。「ふりにしこのみなる時もがな」の「この実」と「この身」は、どちらも作者の願望です。后の思いは「貴方も希望を捨ててはいけない」だったのかも知れませんね。そこで、作者はその思いに応えたとも考えられそうですね。
「励めども我が成績は良くならず教科書まくらに夢の中へと」共感します。私にもこんな時代がありました。*いつまでも合格目指し苦しみて努力すれども目処も立たない
迷いつつ進め努力は実るもの過去の自分に届かぬエール
悩んで足掻いた分、丈夫になるものですよね、メンタルも。その時点では辛くても。
優しい励ましの歌ですね。
「めどはぎ」、聞いたことがありません。枝を台にして木を削った造花を飾るのですよね?冬で花の無い時季ならばともかく、敢えて秋草のある頃にこれを仕立てて飾るのには特別な意味のある飾り物なのでしょうか。「作り物」で意味のある物。后はそれを題にご指名で詠ませた。「欲しい答え」を康秀がする事で、その才能を皆の前で后が知らしめた事になりますね。この歌集への后の思いの深さを感じました。
二条の后は、『古今和歌集』の編纂のパトロンの一人だったのでしょう。背後に様々な事情が想像されます。文屋康秀は仮名序の中で「ふんやのやすひでは、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人のよききぬきたらんがごとし。」と評されていました。新しい時代の歌には取り残されていたのでしょう。この老いぼれの歌も載せてほしいという思いを込めたのかも知れませんね。