題しらす/このうたは、ある人、をとこ女もろともに人のくにへまかりけり、をとこまかりいたりてすなはち身まかりにけれは、女ひとり京へかへりけるみちにかへるかりのなきけるをききてよめるとなむいふ よみ人しらす
きたへゆくかりそなくなるつれてこしかすはたらてそかへるへらなる (412)
北へ行く雁ぞ鳴くなる連れて来し数は足らでぞ帰るべらなる
「題知らず/この歌は、或人が、男と女が一緒に他の国へ下って行き、男が行き着いて直ぐに亡くなってしまったので、女が一人で京へ帰る途中北へ帰って行く雁が鳴いたのを聞いて詠んだのだと言う。 詠み人知らず
北へ行く雁が鳴いているのが聞こえる。連れてきた数が足らないで帰るようだ。」
「(雁)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(鳴く)なる」は、聴覚推定の助動詞「なり」の連体形。「(来)し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「(足ら)でぞ」の「で」は、接続助詞で打消の意を加える。「・・・ないで」。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(帰る)べらなる」は、推量の助動詞「べらなり」の連体形。
男女が連れ立って地方に下った。すると、直ぐに男が亡くなった。女は一人で京に帰る。その道すがら雁の声を聞く。
季節は春である。北へ帰って行く雁が鳴いている。その鳴き声を聞いていると、秋に連れだってやって来た仲間がこの地で死んでしまったのを悲しむ声のように聞こえてくる。まるで今の自分のようだ。こんなに悲しい旅をするのは自分だけではないのだな。しかし、そう思っても悲しみは一層募るばかりだ。
自然はその時の心持ちによっていかようにも感じられる。自分の思いを重ねるからである。作者は、雁の声を仲間を失った悲しみの声だと思う。そう思うことで、愛する者を失ったのは自分だけではないと慰めるのだが、癒やされることはないのだろう。
コメント
土佐日記に「昔の歌」としてこの歌のこと語られていましたね。貫之は古今和歌集編纂の経験から沢山のインスピレーションを得ていたのでしょう。
それにしても悲しい。やっとの思いで目的地に辿り着いたというのに、そこで一緒に暮らす楽しみを見つける間もなく夫を失う。そこに目的が無くなり京へ戻るしかない。失意のまま京へ戻ってもそこには夫はいない。雁の北帰行、甲高く鳴くその声に自らを重ねて「一人」を思い知る。こんな思いをしているのは私だけではない。そう自分に言い聞かせて空を仰ぐと雁の鳴き声がまた降り注いでくる。上を向いたとて涙はとめどなく溢れるばかり。
『土佐日記』では、この歌が土佐の地で子を失った親の気持ちとして採用されていましたね。貫之の一生は和歌で貫かれています。和歌が人生を豊かにすると信じていたからでしょう。その思いは今に受け継がれています。ただ、まだまだ貫之から学ぶことがいっぱいありますね。
地方へ行ったのはどんな事情があったのでしょう。都落ちですから心からは喜べなかったに違いありません。帰京はその意味では喜ばしいことですが、夫が亡くなってはそういう訳にはいきません。そん辛く悲しい京への旅になりました。帰雁の鳴き声も心に染みることでしょう。
来たからやって来て冬を越し、春になってまた北へ戻っていく雁に自分を重ねたのですね。
何とも悲しい寂しい歌です。「女ひとり」と「北へ行く」のイメージから季節は冬を連想してしまいましたが、春なのですね。
一緒に京(?)を出発した時には、まさか一人で戻ることになるとは想像もしていなかったでしょうに。春は旅立ちや、出発、始まりの季節なのに、作者は(来た道を)戻っていくのですね。
旅には、「行く旅」と「帰る旅」がありますね。本来の旅には、どちらにも喜びが伴います。しかし、作者の旅はそうではありません。夫と行く旅は、都落ちでもあるので心から喜べる旅ではなさそうです。しかし、一人で京に帰る旅は、京に戻れるけれど夫を失った悲しい旅です。どちらも、一方が欠けて、作者の心が満たされることがありません。この歌はそんな意に沿わない旅を描いています。雁への思いは、作者の心をよく捉えています。