《別れの喜び》

かねみのおほきみにはしめて物かたりして、わかれける時によめる みつね

わかるれとうれしくもあるかこよひよりあひみぬさきになにをこひまし (399)

別るれど嬉しくもあるか今宵より相見ぬ先に何を恋ひまし

「兼覧王に初めてお話して、別れる時に詠んだ 躬恒
別れるけれど嬉しくもあるなあ。今夜から会う前に何を恋うだろう。」

「(別るれ)ど」は、接続助詞で逆接を表す。「も」は、係助詞で強調を表し「(ある)か」と呼応する。「か」は、終助詞で詠嘆を表す。ここで切れる。「(見)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(恋ひ)まし」は、反実仮想の助動詞の連体形。
宮中で兼覧王と初めてお話する機会を持ち、お別れする時に詠みました。
こうしてお別れいたしますのは、悲しうございます。けれども、一方で嬉しくもございますなあ。今夜からまたお目に掛かる前に何を恋しく想いましょうか、それを思うと嬉しくてなりません。なぜなら、これからは、またお目に掛かるまであなた様を恋しく想うことができるのですから。
まず別れを嬉しいと言い意外性を持たせて、後半でその理由を説明している。兼覧王とお別れすることを嬉しいと言うのだから、聞いた方(兼覧王本人も読み手も)は驚くに決まっている。なぜだという疑問が湧く。だから、その理由を説明されることで、作者の兼覧王への想いは一層効果的に伝わる。意外性を抱かせることは、効果的な表現上のテクニックである。
言わば、作者は兼覧王に恋していると言いたいのだろう。恋とは、相見る時だけのものではない。むしろ、逢えない時に相手を想い悲しむことこそ恋の本体である。たとえば、『万葉集』では「孤悲」と表記されていた。しかし、その悲しみには、また逢える日を夢見る喜びが伴う。別れは、そんな機会を与えてくれる。これも別れの忘れてはならない一面である。作者は、兼覧王にそんな機会を与えてくれてありがとうと感謝しているのである。
「かむなりのつほ」には、躬恒もいた。やはり、ここで『古今和歌集』の編纂がなされていたようだ。この歌は、貫之の歌と同じ状況で詠まれたものだ。

コメント

  1. まりりん より:

    別れるけど嬉しい、という気持ちは何となくわかる気がします。次に会う時までの高揚感が楽しいですね。でもそれは、近いうちに必ずまた会えるとわかっているからですよね。
    作者と兼覧王は、古今和歌集の編纂で連日顔を合わせていたのでしょうか。作者は一方的に恋していた? そしてこのように歌に詠んで、思いを伝えたのですね。

    • 山川 信一 より:

      作者と作者と兼覧王は、滅多に逢えないからこそこの歌になったのでしょう。これはまたお逢いくださいと言う願いも込められています。

  2. すいわ より:

    まさに、今回のタイトルを見て「別れの喜び?」と思いました。なるほど、兼覧王にお初にお目に掛かり、今までにはない感慨を味わいました、次におめもじ叶うまでの間、自分の中で貴方様を思う時間を持てる「喜び」。
    それにしても、貫之の歌からここまでの三首のやり取り、『古今和歌集』の編纂会議と見ると、表向きの意味と含みの部分、実に興味深い。この歌も、そろそろ編纂も大詰めで歌集が手を離れる事を暗に言っているようにも思えてきます。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』には、様々な仕掛がなされているようです。想像力を駆使してそれを読み解くのも楽しいですね。まさに編者との知恵比べです。

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