おほえのちふるか、こしへまかりけるむまのはなむけによめる 藤原かねすけの朝臣
きみかゆくこしのしらやましらねともゆきのまにまにあとはたつねむ (391)
君が行く越の白山知らねどもゆきのまにまに跡は訪ねむ
「大江千古が北陸地方へ下った餞別に詠んだ 藤原兼輔の朝臣
君が行く北陸の白山は知らないが雪のまま君が行くままその跡を訪ねよう。」
「君が行く越の白山」は「知らねども」の序詞。「(知らね)ども」は、接続助詞で逆接を表す。「ゆき」は、「雪」と「行き」の掛詞。「白山」「雪」「跡」は縁語。「(訪ね)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。
友人の大江千古が北陸の地方官に赴任するために下ったことへの餞別に歌を贈る。
君が行った加賀の白山は遠くて行ったことがないので、どんなところかは知らない。けれども、北陸だから雪ぶかいところだろうね。でも、雪がどんなに降っていても雪が降るのに任せて、君が行くそのままの跡をたどって、僕は君を訪ねていこうと思っているよ。
「君」とあるから大江千古は、作者にとって親しい友であることがわかる。ただ離別が悲しいとか辛いとかだけ言うのではなく、たとえ雪が降ろうと訪ねて行くと言っている。真に心の籠もった歌になっている。序詞、掛詞、縁語を使って技巧的な歌ではある。しかし、それが技巧のための技巧になっていない。千古への思いの深さを伝えるための技巧になっている。
コメント
「越の白山」、越えねばならない雪深い山、友の行く手は決して楽ではない旅路である事を思わせます。詠み手は目的地の様子を実際に見た事はないけれど、ここまでですっかり真っ白なイメージの中に入り「雪のまにまに」そこに友の足跡を見て取る。そう、知らない土地だろうと、雪に残した君の足跡を辿れば、君に会いに行ける。だったらここで待つばかりでなく会いに行こうではないか。別れの悲しい雰囲気のまま旅立たせない、友への心遣いを感じさせます。
「おほえのちふるか、こしへまかりけるむまのはなむけによめる」の「(まかり)ける」が気になります。この「むまのはなむけ」は、送別の宴のことではなく、餞別の歌の意味ではないでしょうか。「ふちはらのきよふかあふみのすけにまかりける時に、むまのはなむけしける夜よめる(369)」「「人のむまのはなむけにてよめる」(371)」とは、違います。ならば、千古は既に出発しているのではないでしょうか。だからこそ、「ゆきのまにまに」なのでしょう。
なるほど、もう出立した後、この歌が追いかけて来る訳ですね。きっと別れ際にも沢山語らい、別れを惜しみあったのでしょう。旅の途中であれ、目的地に到着した後であれ、実際に友が来ることが出来なくても、自分を思ってくれる友の心が届いて嬉しいことでしょう。
既に出発した友を追い掛ける感じなのでしょう。きっと気持ちは伝わりましたね。
遠くの行ったことのない土地。ましてや雪深い所であれば、寒いし怖いし不安な筈。でも、そんな事は無関係に、君がいるから訪ねて行こう、と言っている。雪の中なのに、気持ちが暖かくなります。本心から友を思っていることが伝わってきます。
言葉では悲しいとか辛いとか言うのは簡単です。しかし、訪ねて行くのは大変です。作者はそれほどの思いだと伝えています。