物へまかりける人をまちてしはすのつこもりによめる みつね
わかまたぬとしはきぬれとふゆくさのかれにしひとはおとつれもせす (338)
我が待たぬ年は来ぬれど冬草のかれにし人は訪れもせず
「よそへ行った人を待って師走の終わりの日に詠んだ 躬恒
私が待たない年は来てしまうけれど、冬草が枯れるように私から離れてしまった人は訪れもしない。」
「(我)が」は、格助詞で主格を表す。「の」より主語が強く感じられる。「(待た)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「来ぬれど」の「来(き)」は、カ変動詞「く」の連用形。「ぬれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ど」は、接続助詞で逆接を表す。「かれにし」の「かれ」は、下二段動詞で「枯る」と「離る」が掛かっている。「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「訪れもせず」の「も」は、係助詞で同類のことがあることを暗示する。「せ」はサ変動詞「す」の未然形。「ず」は、打消の助動詞「ず」の終止形。
寺にでも隠りに行った人が帰って来るのを待っている。すると、いつの間に時が過ぎ、待っていない大晦日になってしまった。これで、私はまた一つ年を取ることになる。冬草が枯れて存在感が無くなるように、私から離れて行ってしまった人は、手紙も寄こさないし、まして帰って来ることもない。生きている内に再び会えるのだろうか。大晦日には、殊更寂しさがこみ上げてくる。
作者は、大晦日の心情を詠んでいる。大晦日は、一年が終わる日であると共に、冬の終わりの日でもある。だから、春が訪れる喜びよりも冬の極まりを実感する。冬はすべての植物が枯れ果てる季節である。そして、季節は人生を思わせる。大晦日は人生の終わりを連想させる。そこで、人生を振り返り、省みることになる。すると、楽しかったことよりも、悲しかったことや満たされなかったことの方が胸に迫ってくる。大晦日とは、人をそんな気持ちにさせる特別な一日であると言う。
コメント
大晦日は、一年が終わる日だけれど、明日からまた新しい一年が始まる。その年を振り返って、嫌なことや辛いことを思い出したり省みたりするけれど、それらの気持ちを振り切って来年こそ良い事がありますように…と、気持ちを切り替えるタイミング。
と、大晦日は前向きな季節のように思うのは、私が現代人だからでしょうか…
それ程作者は、近しい人が去って音信が途絶えてしまったことが寂しくて仕方がないということなのですよね。
年の暮れと言うように、大晦日は年の終わり、行き着く日なのです。明日が新年であっても、それはそれ、その気分はその時に味わえばいい。大晦日には大晦日の思いがあります。人は今ここにしか生きていないのですから。現代人が「夢」と称して、今ここでないものに思いを馳せるのは、一種の逃避でしょう。それに対して、作者は大晦日に於ける今の自分を見つめています。
327、328番の忠岑の歌を思い出しました。こういう事は良くある事だったのでしょう。躬恒の待ち人もきっと何年も前に見送り、それきり会うこともなく、気付けばまた新しい年が来る。待っているその人は来ないのに。草の枯れるのと交友の離れるが掛かることでより心寂しさが募ります。「大晦日は人生の終わりを連想」、いつまで待てるだろう、という心許なさもこんな心情を喚起するのでしょう。
歌の順、梅の歌が続き、何となく節分の頃を想像していたので「大晦日」と逆戻りした感があったのですが、「冬の終わりの日」としてここに配されたのでしょうか?
大晦日は節分でもあります。これは、追儺として中国から伝わり、宮中の年中行事になっていたようです。しかし、それを『古今和歌集』の題材として取り上げなかったのは、和歌には馴染まないと思ったからかも知れません。また、季節の歌としては、冬の終わりを主題にしたかったのでしょう。