《雪の予感》

題しらす 読人しらす

ゆふされはころもてさむしみよしののよしののやまにみゆきふるらし(317)

夕されば衣手寒しみ吉野の吉野の山にみ雪降るらし

「夕方になると、袖のあたりが冷える。吉野の山に雪が降るらしい。」

「夕されば」の「ば」は、接続助詞で偶然的条件を表す。「寒し」は、形容詞の終止形。ここで切れる。「み吉野の」は、奈良県吉野地方の美称。「み雪」は、雪の歌語で、「み」は接頭辞。「降るらし」の「らし」は、助動詞で根拠のある推定を表す。
夕方になると、袖のあたりが冷える。気温が下がってきた。天気も崩れてきた。この分では、吉野の山に雪が降るらしい。これから、この美しい吉野の里は本格的な冬に入るのだなあ。
作者は、吉野の里に住んでいるのだろう。夕刻これまでと違って袖のあたりが冷えるのを感じる。季節が冬になったことを実感する。そこから、吉野山のことを思いやる。この分では、吉野山に雪が降るらしいと思う。人間には、身近な感覚から遠い自然現象を推定する心の働きがある。たとえば、頭痛がするから明日は雨だろうとか、古傷が痛むから雪が降りそうだとか。そして、その推定は概ね正しいことが多い。なぜなら、人間も自然の一部だからだ。万物は繋がっているのだ。
ちなみに、この事実に従っているのが俳句の季語と人事の取り合わせである。たとえば、中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」は、大から小、自然から人事に向かう。それに対して「はまなすや今も沖には未来あり」では、自然から人事の方向は同じだが、小から大に向かっている。一方、この歌は、小から大、人事から自然に向かっている。すると、残った組み合わせは、大から小、人事から自然である。しかし、人事が自然より大きいことは有り得ないので、この組み合わせはない。したがって、この三つの取り合わせが詩を生み出す型になる。草田男の俳句は、この歌が発想のヒントになったのかも知れない。

コメント

  1. すいわ より:

    なるほど、広角からズームアップして見せたい焦点に絞るのではなく、指先の一点から遥か彼方、見えていないお山の上の様子に意識を持って行く。そうする事で冬の温度感が点から面に広がります。
    夕暮れてくると山おろしの冷たい風が平地に入って来る、それにしても寒い、のですね。きっと吉野の山に雪が降るからこんなにも冷え込むのだ、と。確かに着物は袖口から風が抜けてるので指先から一番に季節を感じますね。上村松園の「庭の雪」という作品、袖の中に手を窄めて僅かに出ている指先がほんのり赤くなっている絵を思い出しました。

    • 山川 信一 より:

      雪は既に降っているとも取れますが、これから降る予感がすると取った方が冬の始まりとしてはふさわしい気もします。
      袖の冷たさから遠い山の天気を感じる鋭い感性が伝わって来ますね。
      すいわさんは、上村松園の『庭の雪』に描かれている女性の指の色がほんのり赤いことを見逃さないのですね。その感性に脱帽です。

  2. まりりん より:

    今どきの言葉を使うと、「リアル」な情景というのでしょうか。毎年冬になると、同じ状況に置かれますね。つい先日も、天気予報で明日は雪云々の情報を聞きながら、両腕をさすっていました。
    この歌では、秋の気配はもう過ぎ去っていて、本格的な冬が始まる直前のやはり短い期間を詠んでいますね。秋に比べて冬の歌では季節の細かな移ろいを感じるものが多い気がします。

    • 山川 信一 より:

      私もそう思います。「本格的な冬が始まる直前のやはり短い期間」に注目した歌ですね。ただ、冬は秋のような劇的な変化がありません。自然界の動きが少なくなり死んだような状態になります。しかし、だからこそそのわずかな変化に敏感になるのでしょう。ここでは、袖の寒さに注意が行きました。

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