《晩秋の山田》

題しらす よみ人しらす

ほにもいてぬやまたをもるとふちころもいなはのつゆにぬれぬひそなき (307)

穂にも出でぬ山田を守ると藤衣稲葉の露に濡れぬ日ぞ無き

「穂にも出ない山田を守ると藤衣は稲の葉の露に濡れない日が無い。」

「穂にも」の「も」は、係助詞で他にも同様のものがあることを暗示している。「出でぬ」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「日ぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「無き」は形容詞「無し」の連体形。
すっかり刈り取られ、目を楽しませることもなく、穂としても出ていない切り株だけになってしまった山近くの田。そんな、今は用無しの田を鹿や猪が荒らすことから守る人がいる。その人の藤の繊維でできた粗末な衣が切り株に生えて来た稲の葉の露に濡れない日など無いのだ。
晩秋の山田の風景を描写している。山田は、もはや切り株だけになっている。切り株から穂の出ることのない稲の葉が生えている。農民は、粗末な衣を露に濡らしながら、そんな田を一年中守り続ける。山田に暮らす農民の姿が浮かんでくる。そして、それを眺める(貴族であろう)作者のその生活への同情が伝わってくる。
前の歌と同様「山田」を題材にしている。しかし、この歌の方が凝った表現技巧が使われていないのに、リアルに実景を描写し、むしろ歌の「真」が感じられる。編者は、対照的な歌として並べたのだろう。
ただし、この歌も詞書によっては、何かをたとえた歌にもなり得る。「穂に出づ」とは、「隠していることを表に出す」ことを言う。すると、この歌は、極めて暗示的な内容を持った歌に思えてくる。しかし、この歌は「秋下」に置かれている。だから、暗示的な歌として取られないために「題しらす よみ人しらす」にしたのだろう。こうすることで解釈を限定しているのだ。これも詞書の働きである。

コメント

  1. すいわ より:

    従者とともに暮れ行く秋の野山を散策する貴族、稲の刈り入れも済んだ山の寂れた田に人影を見つけ、「あの者は稲穂も無い田で何をしておるのだ?」と問う。たわわに実った稲穂が波立つ田しか知らない貴族。
    乾いた冷たい風の吹く秋の田で、農民は粗末な衣のまま寒かろうに、露に濡れることも厭わず田を守っていることを知る。この苦労を表立って知るものは少ないだろう。稲葉の露は彼らのたゆまぬ労働の汗か、苦労の涙か。休む間など無いのだ。この日の気付き。露に濡れて銀色に光る稲葉を眼前に、黄金色に輝く豊かな田を夢想したかもしれませんね。
    暗示的、なるほど「題しらすよみ人しらす」にする事で「秋歌」にとらせる。
    「藤衣」とあると、夫に先立たれ没落しても家の誉を守ろうとする妻、でも、涙を流さぬ日は無い、と取れなくもないですね。

    • 山川 信一 より:

      具体的でとてもいい鑑賞ですね。作者の行動が目に浮かんできます。その思いも伝わってきます。鑑賞とは、このようにありたいものです。
      なるほど、「藤衣」には、粗末な服以外にも喪服の意味もあるので、そうも読めますね。

    • まりりん より:

      すいわさん、本当に素敵な鑑賞をなさいますね。ストーリーが成立していて、映像を見ているように情景が鮮明です。先生も褒めていらっしゃるように、私もすいわさんのような鑑賞ができるように頑張ってみます。

      話は変わりますが、この歌にはミレーの絵が(「落ち穂拾い」とか)合いますね。

      • 山川 信一 より:

        すいわさんは、教師から見て理想的な生徒です。教師は生徒を育てますが、生徒も教師を育てます。すいわさんは、それを実践しています。よろしければ、そこも見習ってください。
        私もミレーの絵に通じるものがあることに同感します。

      • すいわ より:

        お褒め頂き、有難うございます。恥ずかしいけれど、嬉しいです。
        「映像を見ているよう」、私、田舎育ちなのです。貴族側でなく農民側?いえいえ、鹿や猪同様、荒らす側。子供の頃、刈り入れ後の田んぼで遊びました(笑)。

  2. まりりん より:

    まず接点がないであろう、貴族である作者と山田の農民。鹿狩りにでも出掛けた途中で偶然に見かけたのしょうか。立ち止まって、その働きぶりを遠くから眺めていたのか。同情の気持ちを抱く一方で、その生き様に対する労いや尊敬の気持ちが込められているようにも思えます。

    歌というのは、31文字だけではなく詞書や絵や作者や、全ての情報から解釈するものなのですね。いつもながら勉強になります。

    例えば、     京へ上る途の深山にて詠める  つらゆき  
    とか、詞書があったとしたら、、京へ向かう途上でいつも見かける農民は若い女性で、そのひたむきさに心惹かれているのかな、、とか想像してしまう。。ということですかね。

    • 山川 信一 より:

      この鑑賞も具体性があっていいですね。なるほど、「労いや尊敬」の思いもありそうですね。どこまで本気かは別として。
      「京へ向かう途上でいつも見かける」の「いつも」は貴族なので不自然ですが、この農民が女性で心惹かれる人がいてもおかしくありませんね。ならばその人は「つらゆき」ではなく、「なりひら」の方がふさわしそうです。

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