《秋を見送る》

神なひの山をすきて竜田河をわたりける時にもみちのなかれけるをよめる きよはらのふかやふ

かみなひのやまをすきゆくあきなれはたつたかはにそぬさはたむくる (300)

神奈備の山を過ぎゆく秋なれば竜田河にぞ幣は手向くる

「神奈備の山を過ぎて龍田河を渡った時に紅葉の流れていたのを詠んだ 清原深養父
神奈備の山を過ぎて行く秋だから竜田河に幣は手向けるのだ。」

「秋なれば」の「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「竜田河ぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「幣は」の「は」は、係助詞で取り立ての意を表す。「手向くる」は、下二段活用の動詞「手向く」の連体形。
秋が神奈備の山を通り過ぎて西へ帰っていく。だから、神奈備の山の神が麓を流れる竜田河に幣は手向ける。しかし、神は秋を引き留めてはくれない。秋を見送る寂しさが募るばかりである。
龍田河に流れる紅葉を見た時の寂しさを詠む。秋を擬人化する。秋が役目を終えて西へ帰っていくので、神奈備の山の神が竜田河に紅葉を幣として手向けたと見る。擬人化したのは、神奈備の山という土地が影響している。神が鎮座するこの地では、秋も人として振る舞うのだ。この歌も前の歌と同様に土地の持つ喚起力によって作られている。人はその土地土地にふさわしい物語を思い描くものだ。

コメント

  1. まりりん より:

    竜田河に浮かぶ紅葉、伴う寂寥感、、この情景は「動」というより「静」ですよね。
    それなのに、この歌にはとても躍動感を感じます。これは擬人法の効果でしょうか。
    試しに、同じ情景を擬人法を使用せずに詠んでみました。

    例えば、    竜田河 紅葉の幣を手向けられ 神奈備山の秋は過ぎ行く

    やはり、これでは躍動感は感じませんね。静寂、、というより平凡?
    いや、それ以前の問題か。。

    • 山川 信一 より:

      擬人化は、寂寥感を自ら慰めるものだったのではないでしょうか。擬人化に躍動感が感じられるのもそのためと思われます。物語性を加えて、言わばはしゃいでいるのです。和歌は叙情詩です。この場合、擬人化しないと、その時の思いが表現できなかったのでしょう。たとえば、あなたが作られた例歌では、その叙情が十分に伝わって来ません。

  2. すいわ より:

    神奈備の山を通ってきたのでしょうか、そして今、竜田川を渡ろうとすると川の流れに揺蕩う紅葉がなんとも美しい。来し方を振り返ると紅葉の時季を過ぎて寂しくなりつつある山から落葉が降り注いでいる。それはまるで竜田姫の旅立ちを見送る山の神が旅の無事を祈って振る幣のようで。川の流れは立ち止まる事なく、山は変わらずそこにある。その寂しさに人も添う。また巡る季節を待って山は暫し眠りにつくのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      情景を具体的に想像しています。そんな感じだったのでしょう。情景が目に浮かんできます。
      紅葉を装っていた山が装いを解いて、眠りに入っていったようですね。

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