《紅の浪》

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる  そせい

もみちはのなかれてとまるみなとにはくれなゐふかきなみやたつらむ (293)

紅葉葉の流れて止まる湊には紅深き浪や立つらむ

「二条の后藤原高子が皇太子の母である御息所と申し上げた時に、御屏風に竜田川に紅葉が流れている画を描いてあったのを主題にして詠んだ  素性
紅葉葉が流れて止まる湊には紅の濃い浪が今ごろ立っているのだろうか。」

「紅葉葉の」の「の」は、主語を表す格助詞。「浪や」の「や」は、係助詞で疑問を表し、係り結びとして働き、文末を連体形にする。「立つらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞「らむ」の連体形。
竜田川のそばに立っていると、川いっぱいに紅葉葉が流れているのが見える。この紅葉葉は、やがて川の流れと共に海へと流れ、湊で止まるのだろう。ならば、紅葉葉が溜まる湊には、今ごろ濃い紅色の浪が立っているのだろうか。
屏風の中にいる人物になって詠んだ想像の産物である。竜田川を流れる紅葉の美しさを、その行く末を次のように想像することで表している。「竜田川を埋め尽くすほどの紅葉葉は、流れ流れてやがて水の出口である「湊=水門(水の出口)」に行き着きそこで止まる。ならば、水門には大量の紅葉葉が溜まってるはずだ。そこは海でもあるから、当然浪が立っている。すると、その浪は紅葉葉の浪であるから、濃い紅色であるに違いない。」と。作者は、こうして自己の想像力の豊かさを披露している。その一方で、この歌は、これだけのことを想像させるのだからと、その屏風画の見事さを讃えてもいる。そして、編者は、この歌によって、和歌(芸術)が想像力による創造物であることを示している。

コメント

  1. まりりん より:

    竜田川の紅葉の美しさは、しばしば和歌に詠まれていますね。
    個人的には、
            ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 
                    からくれないに 水くくるとは

    百人一首で有名な、在原業平のこの歌が大好きです。

    ごめんなさい、話の筋をそらせてしまいました。

    • 山川 信一 より:

      まりりんさん、初コメントありがとうございます。業平の歌は、次に載っています。この歌とペアになっています。続けてお読みください。

  2. すいわ より:

    屏風に描かれた絵から生まれた歌。限られた空間から創造される広い世界。小さな流れから始まり、流れ流れて集まりその美しい色彩は無限の波となって広がる。今ここで見ることの出来ないはずの紅葉に染められた波が目の前に現れたかのよう。高子の庇護をもって歌の世界も広がっていったと思うと、この歌、なるほど彼女への敬意が感じられます。

    • 山川 信一 より:

      素性法師の想像力は、屏風絵から実景へ、川から海へと広がっていきます。読み手の心にも紅の浪が見えるようですね。藤原高子への敬意もそこはかとなく感じられます。

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