《自然と心情》

題しらす よみ人しらす

あきかせにあへすちりぬるもみちはのゆくへさためぬわれそかなしき (286)

秋風に敢へず散りぬる紅葉葉の行方定めぬ我ぞ悲しき

「秋風に持ちこたえられず散ってしまった紅葉葉のように行方を定めない私こそが悲しいことだなあ。」

「散りぬる」の「ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「紅葉葉」に掛かる。「定めぬ」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「我」に掛かる。
秋風に吹かれ持ちこたえることができず、紅葉葉が次から次へと散っていく。散っていった葉は、どこへ行くのだろう。いずことも無く消えて行ってしまう。それを見ていると、我が身を思わずにはいられない。その葉と我が身とどれほどの差があるのだろう。私も同じように死に、いずことも無く消えていく存在のだ。そう思うと、悲しくてならない。
作者は、散って行く紅葉葉を冷静に見ていられない。それに自分の身を重ねて悲しくなってしまう。そんな思いを詠んでいる。自然の事物は、見る者の気持ち次第でいかようにも見える。作者に散る葉がこう見えたのにも何か事情があったのだろう。散る葉がこんな風に人の心を悲しみに誘うものであることを言っている。

コメント

  1. すいわ より:

    O・ヘンリーの「最後の一葉」を思い出しました。洋の東西を問わず、人に備わった感覚ということなのでしょうか。
    秋風に切り離された上、何処へ行き着くかもわからない紅葉。皆にその彩りを愛でられ誉めそやされる時もあったと思うと、それに自らを重ねる詠み手の不遇な今を思わされます。

    • 山川 信一 より:

      落ち葉に人生を重ねるという発想は、洋の東西だけでなく古今も問わないのですね。まさに「人の一つの心」です。
      自らの不遇を悲しんでいるのか、悲しいことがあったのか、作者の今が反映していますね。

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