第二百三十八段  兼好の自慢話 その五 ~仏教の知識~

一、那蘭陀寺にて、道眼聖談義せしに、八災といふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化みな覚えざりしに、局の内より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

八災:憂・苦・喜・樂・尋・伺・出息・入息の八つ。心の統一を妨げるので、災と言う。
所化:教化される者。弟子のこと。

「一、那蘭陀寺で、道眼上人が談義をした時に、八災ということを忘れて、『これを覚えおられるか。』と言ったが、弟子が皆覚えていなかったので、部屋の中から、『これこれではないでしょうか。』と言ってやったところ、その場の人々は非常に感心しました。」

談義をする学僧である道眼上人よりも知識があったという自慢話。道眼上人は入宗の僧である。そういう僧でも、物忘れはする。しかし、「八災」は、八つもあるのに全てを忘れることがあるのだろうか。しかし、「八災の一つ」とは書いていないのだから、「八災」とは何かを覚えていなかったのだろう。人は関心の薄いものは忘れやすい。ならば、道眼上人は経歴こそ立派であるけれど、その実内容が伴っていなかったのではないか。ただ、兼好が「八災」を明らかにしても、感心しているだけで、特にプライドは傷ついていないようだ。虚栄心の強い人物ではなかったらしい。したがって、この話は、道眼上人に対する批判を強く感じない。純粋な自慢であるようだ。

コメント

  1. すいわ より:

    道眼上人は八災を忘れたのでなく、弟子に答えさせたかったのではないでしょうか。情けない事に弟子たちは一人として答えられない。門外の兼好が答えた事に「ほう、よくご存知であったなぁ」と感心されたのだと思いました。上人より出来る、というよりも現役で学んでいる人に劣らない自慢、ではないかと。弟子の諸君、感心している暇があったら学べ、と。

    • 山川 信一 より:

      先生が忘れたふりをして生徒を試すというのは、ありがちな話ですね。多分、道眼上人の場合もそううだったのでしょう。だから、兼好に指摘されても、余裕があります。しかし、兼好はそう思っていたのでしょうか?「八災ということを忘れて」とはっきり書いているところから見ると、そうは思えません。しかも、自慢話として書いていることから見ると、弟子だけでなく上人も上回ったと思っていたのではないでしょうか。

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